02 あんたは醜いけれどあたしには綺麗(2)

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「壁に〈心に太陽、くちびるに歌〉と書いてあるはずじゃ。それが目印になる」
 おれが爺さんに行き先を尋ねるとそう答えが返ってきた。
「近隣の若者がしてくれたんじゃ。儂が他人に家の在所(ありか)を説明しやすいようにとの」
「奇特なガキもいるもんだな」
「この辺りでは世間ズレした大人より、若い者のほうがよっぽどマシじゃ」
「へえ。そんなもんかねえ」
「ほっほっほ。よそ者じゃ。よその者じゃから、そんな風に都会じみた目線になる」
 別に目印がなくても爺さんの家は簡単に見つけられた。棄てられて、放り出された畑だったものか田んぼだったものかの、ド真ん中にぽつんと建っていたからだ。
 壁には大きな文字で〈ひとくいじじいがおまえをこする〉と書いてあった。
「わかるかな?儂の家が……」
「ああ。なんとなく見当がついたぜ」
「よかれかし……よかれかし」
 家と爺さんは云ったが、()家と云った方が正直な、豚小屋の成れの果てのような建物だった。壁のあちこちは土砂崩れし、中身の()が覗いていたし、字の他に猫の()でもミキサーに掛けて大笑いしそうな奴が描きかねないような目玉やらチンコやらマンコやらが派手に血を吐く画で埋められていた。
 蝶番(ちょうつがい)の外れ掛けた戸の前で一旦、爺さんを降ろし、おれは中に入った。後に続いた爺さんは(からだ)を折り曲げたまま隅のベッドに転がり込んだ。
「大丈夫か?」
 おれはコップに水を注ぐと爺さんに持たせた。
 爺さんは噛むように〈ん、ん〉と頷きながら二杯飲んだ。
「た、棚に酒が」
「わかった」
 云われた場所に、埃をかぶったハバナクラブがあった。
 爺さんはそれを口に含み飲み下すと、長い溜息を吐いて静かになった。
「痛みはどうだ?」
「津波から潮騒(しおさい)になったの」
「それはなによりだ」
 爺さんは所謂(いわゆる)、〈目が()いているほう〉なので()っと黙っていると見つめられているようで居心地が悪い。おれは隅っこにあった木箱を引き摺ってくるとベッドの足下で腰掛けた。
 おれは爺さんに今夜の宿と、できれば飯を頼まなければならなかった。一昨日からまともなものは口に入れていないし、このままでは空腹のあまり、エテ公か何かに先祖返りしちまいそうだった。
「あんた、バターン死の行進を知っとるか」
 爺さんが呟いた。
「物凄く大きな音がしそうだな」
「そうなんじゃ」
「知り合いでもいたのか」
「んにゃ。ただ酷く疲れたり憂鬱(ゆううつ)になったりすると、この言葉(ワーズ)が浮かんで離れんようになる……〈バターン死の行進〉。若いうちは〈房総ペコペコ節〉か〈津軽シコシコ節〉だったんじゃが……此も寄る年波かの」
「どうだろう。難しい話は苦手でね」
「ばたーんしのこうしん……」
「あ、雑炊か何か作ってやろうか?そろそろ夕飯でもいい時分(じぶん)だぜ」
「儂はええ。あんた自分の分だけ作って食べなされ。隅の瓶に米やら何かある」
「え、ほんとかい。すまねえな」
「最前から、ずっとあんたの腹から風呂で屁をしたような()が鳴っておる。遠慮なくやりなされ。儂は寝る」
 おれが返事をする前に爺さんは(いびき)()き始めた。
 ……ありがてえ。
 おれはそう独りごちてから、かまどと流しの脇へ行き、見つけた土鍋に米を入れ、洗ってから塩と醤油で即席のスープを作り、ことこと煮立てた。驚いたことに喰っても下痢ピーになりそうにない卵が冷蔵庫に転がっていた。おれはそれも使わせて貰うことにした。(しばら)くすると糊が蓋の縁にぷくぷくと溢れた。米の蒸れた香りが鼻を()つ。味見をしながら塩と醤油を少し足す。卵を落とすと(ふく)れっ(つら)(だいだい)(たちま)ち、白ぼけた。
 おれは(さじ)(くわ)え、土鍋を手に外へ出た。
 地べたに腰を下ろすと、上は満月で辺りは皓々(こうこう)と光っていた。電線もまばらで、遠くに山影が並んでいる。こんなのんべんだらりとした雰囲気の中、壁の落書きだけが凶々(まがまが)しい。
 雑炊を食い終えたおれは尻ポケットで潰れていた吸いさしの残りを取り出し、うまく咥えられる程度に形を整えた。それから胸ポケットに残っていた最後の(ワックス)燐寸(マッチ)靴底(ソール)に擦りつけ、点火した。
 苦い煙を肺から喉へと汚れを押し出すように吐く。首の後ろがぽかぽかしてくる。心地よい(だる)さが忍び寄ってくるのだ。胃に食い物が入っているということは幸せなことだ。それだけで丼飯が四杯は食えるぐらい幸せだし、普段の自分なら絶対に許さないことも許せるような気分になってくる。
 つまり、どこかの道ばたに落っことしちまった慈悲(じひ)の心ってやつが戻ってくる寸法だ。

 

 土鍋を洗い、箱に腰掛けたおれは背中を壁に押しつけて目を閉じた。両手を組んでみたが本格的に寝入ってしまえば、どうなっていようと知ったこっちゃない。すると爺さんの声が暗闇で響いた。断っておくが、おれが雑炊を作ったのは真っ暗闇のなかでのことだぜ。爺さんにランプは必要ねえんだ。な、おれもなかなかやるだろう?
「あんた。どこへ行くのかね」爺さんの声はさっきよりもハッキリしていた。良い傾向だ。
「ああ。どこかへ行くね」
「どこへ?」
「どこかさ。今までおれが神様に預けておいた人生のツケってやつを、がっぽり払い戻してくれるような女のいるところへ」
「あんた独りもんだな」
「人はおふくろから出た途端、みんな独りだよ」
「娘がいる」
 おれは荷馬車のオヤジの言葉を思い出し、続きを待った──なるべくなら生まれたてのおれの慈悲心を使い果たすような話は聴きたくないと思った。
「えねまるだすと云うんだが、死んだ嫁がバタイユに(ちな)み、肛門と宝石を合わせたそうじゃ。儂はさとみがええと云ったんじゃが、あいつは儂の目が不自由なのを良いことに、えねまるだすで届けを出してしもうた。それがわかったのが小学校に上がるときのことじゃった。全く排便(エクソ)直腸(エネマ)に戻らずとはこのことじゃよ」
「悪い。おれは哲学とかよくわかんねえから……」
「気にするな。哲学を知らんからそんな暮らしなんだから、気にすることはひとつもない。甘んずるんじゃ。哲学、文学のない人間は全て甘んずるのが一番の特効薬なんじゃ。それで来週、彼女が孫を連れて里帰りしてくる。こう云っちゃなんなんだが、あんた、外壁をピンクに塗り直してくれんかな。できるだけ派手で遠くからもわかる、見ただけで殴られたような気分になるショッキングピンクに」
「淫売の巣でも始めるのか?」
「んにゃ。孫の名が激桃(げとう)というんじゃ。娘がヤヨイ・クサマの熱烈ファンでな。因縁を込めたんだと」
「そんなものを込めなくても」
「金は米の瓶の中に財布が隠してある。大事なものはひとつところに置いたほうが便利じゃ。それを使ってくれ。街までは、裏に無断駐車してある車が並んでいるじゃろう、鍵の付いてるのを使うと良い。人様の土地に無断で駐めくさってるんだから、少々借りても文句は云わんじゃろう……どうじゃ?」
 答えは決まっていた。おれにはどうせ行く場所も予定もないのだ。
「やるよ。その代わり……」
「その代わり、飯と寝場所は提供する。終わったら僅かながら賃金も出そう」
「そんなこと云って。おれがその銭を手にトンズラしたらどうするつもりだ」
 爺さんは鼻で嗤った。
「ふん。あんたは愚かだが莫迦じゃない。それに粗野だが野卑ではない。それぐらいは、お見通しじゃ」
「変わった爺だぜ……」
 腹の雑炊がこなれてきたせいか、おれも瞼が重くなりそのまま眠った。

 
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 翌日、おれは爺さんの金を手に豚小屋の裏に回った。その前に爺さんの話をしておく。爺さんは朝になると顔を洗い、歯を磨いた。家の中の爺さんは杖も使わず、目が見えないとは思えないほど悠々(ゆうゆう)と歩き回った。爺さんは豆のようなものを少し(かじ)ると道具箱を取り出し、竹細工を始めた。細工と云っても何かをもって編むような仕事じゃない。長さも太さも人の小指ほどの、節を抜いた細竹に(きり)で穴を開け、時折、口で息を吹き込む。
 おれは竹の周りを器用に動く爺さんの指に感心しながらも、今夜の腹の算段を、窓より穴と云った方が早い壁の空間から足を突き出し考えていた。
「どうだ?」
 やがて爺さんは顔を上げた。顔には会心の笑みというやつが浮かんでいたが、おれの居るのとは全く別方向に向けられていた。おかげで爺さんのビッグスマイルに直撃され、もたつかずに済んだ。
「なんだい?」
 おれの問いに爺さんは口の中でもぞもぞと笑い、竹の先を口に当てた。出だしは()頓狂(とんきょう)な音だったが、すぐまともなメロディになり、誰でも知っている童謡に変化した。
「驚いたな。そんな小さなものなのに」
 爺さんは自分で開けた穴の上へ器用に指を走らせ、吹き続けた。洗練されていない、どちらかというとゴツゴツした音だったが、それが妙に懐かしい。ホットカーペットと炬燵(こたつ)の差というべきか。
「ふぅ」吹き終えた爺さんは満足げに、ひと息吐く。
「巧いもんだな」
 爺さんは黙って、道具箱から先の固まった絵筆を取ると歯で(しご)いてから絵の具の瓶に入れた。最初は緑、それからピンク、そして黄色。
「嘘だろ」
 見ると竹笛には枝に留まる小鳥が描いてあった。
「爺さん。あんた、見えるのか?」
「んにゃ。だが画は指が憶えておる。色は匂いでわかる」
 画を描き終えた爺さんは乾かすために、それを窓辺に置き、また次のを作り始めた。
「そんなに作ってどうするんだよ」
「これは売り物じゃ。近所の若い者が買いに来る」
「へぇ。此処らの連中は変わり者ばかりなんだな。でも悪くない趣味だぜ」
 それからおれは外に出、荷台のあるポンコツに乗り込んだ。一旦、開けたドアは()び付いていてキチンと閉まらなくなった。でも強情な(さび)のおかげで外れ掛けたヒンジでもなんとか持ち(こた)えているようだった。車の腹には大きく『男ならマスをかくより汗をかけ!蝶印 乳房ホルダー』と書いてあった。
 鍵を回すとキュルキュル、けちんぼの鼻歌のようなのがし、それから溺れた喘息持ちのような音を立て車体が揺れ、タイヤが動き出した。
 爺さんは街にある『おまぞん』という雑貨屋に行けと云った。そこは金魚の餌からセメントまで揃う小型なのに奥の深い店なのだそうだ。
『目抜き通りに着いたら、誰でもええ、店の名前を云えば、たちどころに教えてくれる』と爺さんは云った。
 念のため自分で通りを走り回ったが、それらしい店はおろか歩いている人間もいない。なのでおれは、床屋と定食屋と整備工場が並ぶだけの通りで女子高生らしいのがふたり並んで歩いていたので、あまり気は進まなかったが背後から車を近づけた。
「なあ君たち、此処らにおまぞんって店はあるかい?」
 振り返った途端、奴らは爪先にギロチンが落ちたみたいに飛びすさり、けたたましい悲鳴を上げて逃げ去った。
 おれは舌打ちするとその場を離れ、他の成人の男を探すことにした。
 通りは人気(ひとけ)が全くなかった。通りの端まで行くとポンプがすっかり錆び付いたガソリンスタンドがあった。ソーダの自販機の前で屈んでいる男がいた。
 おれは車から下りると近づいてから声を掛けた。
「悪いけどさあ、あんた……」
 奴はおれを一瞥し、そのまま手にした小銭を地べたに散らかしながら、ゆっくり立ち上がった。
「お、お、お、お……俺はまだ死んじゃいない。死んじゃいないぞ……」
(いや)、落ち着きなよ。あんたは生きてるし、おれは店を訊きたいだけなんだ。おまぞ……」
 奴は躯をぶるっと震わせるとガラス張りの事務所に駆け込んだ。
『うわああ!地獄だ!生き地獄だ!もうおしまいだ!みんな死ぬんだ!ヨシエもスマシもミチナガもタマサガリも、みんなみんな地獄でヤキソバになるんだ!』
 事務所をロックした奴は目を見開いたまま髪を掻き(むし)り、シャツを引き裂くと机の上から飛び降り、床で滑って転んで、また立ち上がって、悲鳴を上げた。
「おい。落ち着けったら!おれは店を探してるだけなんだ。おまぞんって云うんだ。教えてくれたらすぐに消えるよ」
『じ!地獄!地獄のヤキソバだ!ヤキソバ病だ!死ぬよ~!その前に殺せ!さあ殺せ!だ、誰か俺を今すぐウマイウマイ、ごっつぁんですと云いながら食ってくれえ!頼む!頼む!』
 おれはスタンドから離れると車に戻った。
 男はバットで(おり)を叩かれているエテ公みたいにまだ事務所のなかで暴れ回っていた。口から泡を吹いている。
「なんなんだよ」予想はしていたが少々、此の街の奴らはエキセントリックスが過ぎる。
 爺さんは〈街〉と云っていたが、実際は舗装も曖昧(あいまい)な凸凹が朦朧と三筋ほど縦横に交差している薄ら寒い所だった。
 突然、〈ふぉん〉と派手な音がし、振り返るとパトカーがライトを回転させていた。
『トメル。オマエハキット、クルマヲトメタホウガ、イイナ』スピーカーがそうがなったのでおれは云われたとおりにした。
 停車させるとパトカーから下りた警官が近づいてきた。
 おれは内心、蒼褪(あおざ)めていた。何しろおれは免許を持っていなかったし、この車は人のものだったからだ。
 窓際に警官が立った。
 相手が黙っていたので、おれは自分から白状しちまうことにした。
「おまわりさん……実はおれ無免許なんだよ。この車もおれのじゃない……」
 その時、警官の手が腰の拳銃に当てられるのが見えた。
『そんなことはどうでもいい……』
「え?」
『貴様の目玉はポンコツか?』
「……」
『よく、そんな顔で……他の人の気持ちを考えたことがないのか貴様……脳がしどろもどろだな』
「どういうことでしょうか」
『下りろ。条例違反だ』
「え?」
 警官は棍棒で車の腹を殴った。天井から錆が降り注ぎ、咳き込みながらおれはドアを開けた。その途端、ドアが落ち、コインのように派手な音を立てながらいつまでも揺れようとした、のを警官が勢い良く踏んで停めた。
 おれよりも頭ひとつデカイ大男が、金壺眼(かなつぼまなこ)を燃やしながら睨んでいた。こいつはおれより年上なのにデカイ。
(ひざまず)け」そいつは云った。

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平山夢明(ひらやま・ゆめあき)プロフィール

平山夢明(ひらやま・ゆめあき)
小説家。映画監督。1961年神奈川県出身。94年『異常快楽殺人』刊行。2006年に短編「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞短編賞受賞。翌年同短編集「このミステリーがすごい!」第1位。2010年『DINER』で第28回日本冒険小説協会大賞、11年に第13回大藪春彦賞受賞。