#06

カレーパン征服

 先日、生まれてはじめてを抜いた。
 左顎下に眠るように横たわっている埋もれ歯だった。ふだんは姿も見えず大人しいが、宿主(私)の体調が悪くなったり、疲労が溜まったりすると、むくむくと腫れる。
 なので、長いあいだ健康のバロメーターにしていた。口腔の左奥が熱くなりはじめると、とりあえず仕事や外泊を一旦やめて休息を取るというぐあいに。

 けれど、だんだんと腫れる間隔が短くなってきた。出張が続いたり締切が重なったりする忙しい時期に、ずくんずくん痛んでくると、勘弁してくれよと泣きたくなった。
 そして、ついに夏の終わり、頭痛を伴う大腫れが起きてしまった。一度痛みだすとねちっこくしつこい。商売道具である眼球の奥まで地味に( うず)く。数日間まったく仕事にならなかった。

「次の炎症はもっとひどくなります。そういうものです」と歯科医に予言され、と別れる決心をした。私のは顎の太い神経に触れているため、総合病院の口腔外科を紹介された。「手術です」と言われ、手術というたいそうな響きに内心びびったが、遅い夏休みのつもりで一週間だけ仕事を休むことにした。

 昼過ぎからの手術だった。午前中どうにも手持ち無沙汰で、豚汁を作ることにした。土まみれの里芋を洗い、ひとつひとつ()いて、下茹でする。雪平鍋の底に沈んだ里芋の、薄灰色がかった白を眺めていたら気分が落ち着いてきた。鍋いっぱいの豚汁を残して家をでた。

 これでもかと麻酔を打たれ、作業が開始された。手術なのに作業と思ってしまうのは、どう見ても人体に使うとは思えない器具が並んでいるからだ。「目を閉じてくださいね」と釘を刺される。「欠片(かけら)が飛ぶことがあるので」と水色のシートを顔に貼られる。

 欠片?と思ったときには後の祭りで、二十分ほどでは抜かれた。見えなかったけれど、抜くという感じではなかった。歯茎をすうっと切られ、バキバキッと砕かれ、骨を削られ、えぐり取られ、縫われた感触が麻酔ごしにぼんやりと伝わってきた。
 はじめて見た自分のは、ばらばらの血(まみ)れで、銀色の平皿に載せられていた。血は新鮮な色をしていた。

 家に帰ると、異様な空腹をおぼえた。血を失ったからかもしれない。止血のために脱脂綿を噛んでいたけれど、口の中は血と唾液であふれ、赤いあぶくを吐き続けていた。ひとまず横になり少し眠った。

 口内の不快感で目が覚めた。熱い、すごい血の味がする。脈拍と一緒にどむどむ痛む。
 血の味は嫌いじゃなかった。ブーダンノワールもユッケも馬刺しもタルタルステーキも好きだし、肉はレア気味で焼いて欲しい生肉大好き人間だ。
 けれど、そのときの血の味はまったく違った。格段に生々しい。そして、もったりと重い。胃の底で凝固した血液を想像すると、吐き気が込みあげた。込みあげる腹の空気すら血の臭いがする気がした。

 いままで自分が好んできたのは、死んだ生物の血の味だったのだと思い知った。生体から流れだす血の味を(たの)しめるほど、私の味覚も体も生命力も強靱(きようじん)ではないのだと、負けたような気分で寝室をでた。

 料理人である殿に、血の味が(つら)いことが悔しいと訴える。「千早がふだん食べているのは血抜きした肉なんだから当たり前。もし人間が血の味を好むのだったら、そういう料理がたくさん存在しているはずだよ」と、妙な慰めを受けた。
 ちょうど夕飯時で、殿は豚汁をよそっていた。生姜と味噌と根菜の入り混じった香り、具だくさんの汁に浮く透明な豚肉の脂。腹が鳴ったが、濃い血の味と激しい痛みが気になって口を動かしてものを食べるのが怖い。

 ふと、一時期同居をしていた友人が抜歯後に肝煮と焼き鳥を貪り食っていたことを思いだした。妹は抜歯直後にケンタッキーに駆け込んでいた。狂気の沙汰だな、と思いながら、左顎を冷やし林檎ジュースを飲んだ。

 それから数日、熱と痛みに苦しめられた。「熱さまシート」は四時間でカピカピになり、痛み止めは足りなくなり病院にもらいに行った。口が二センチしかひらかないので、主に粥、果汁、甘酒、ヨーグルト、プリン、ムースなどを食べて過ごした。どれも好きなものばかりだったし、殿が作ってくれた玉葱とトウモロコシのすりながしはしみじみ美味しかった。

 でも、殿がニンニクのきいた豚バラ丼なんかを食べていると羨ましくて眩暈(めまい)がした。焼き餃子(ぎようざ)、生姜焼き、麻婆豆腐、レバニラ炒め、青椒肉絲(チンジヤオロース)回鍋肉(ホイコーロー)……治ったら食べたいものリストを作ってしのいだ。中華が多い。炊きたての白ごはんと一緒にかっこむのに最適な料理ばかりだ。ああ、かっこみたい。

 一週間が経った。熱はひいていたが、まだ腫れと痛みは残っていた。
「俺、昼はカレーにしようかな」と、仕事に行く前の殿が冷凍庫からストックカレーを取りだした瞬間に、脳内がカレーで染まった。
 カレーがどうしても食べたい。でも、カレーライスをクリアする自信はない。家を飛びだすと近所のチェーン店のパン屋へ入った。カレーパンをトレイに載せてレジへと急ぐ。

 パンは網で(あぶ)ると焼き目が芳ばしくパリッと仕上がる。せっかくなら美味しくいただきたい。はやる気持ちを抑えてカレーパンを網にのせ、コンロの上に置く。中心のカレー部分もしっかり温めたいから弱火で。衣がちりちりと音をたてるとひっくり返し、時間をかけて焦げ目をつけていく。ようやく皿に移すと、ナイフとフォークで小さく切り刻み、口に運んだ。

 一週間ぶりの固形物だった。さくさくした衣とスパイスと肉の(うま)み。なんだこれは、とぶるっと震えた。一心不乱にちまちまと切っては口に押し込み、平らげてしまうと、胃袋ではない部分が多幸感で満たされていた。
 これは征服欲だと思った。
 歯を使って食べることは、食べものを打ち負かし支配することだ。

 ただ、ひさびさの油に胃がびっくりしたせいかお腹は壊してしまった。けれど、生きる力を取り戻したように、傷はどんどん快方に向かった。
 安静より欲望を優先させて肉を食べた友人や妹は正しかったのだ。人間は少々無理をしてでも食べたいものを食べる方が絶対にいいと悟った。

 そういえば、を抜くかどうか担当T嬢に相談したとき、「それでエッセイ一本書けますよ」と言われた。まんまと彼女の策にはまっている気がする。

イラスト 北澤平祐

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著者 千早茜プロフィール

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。
2008年「魚神」で第21回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補、吉川英治文学新人賞候補となる。近著に『西洋菓子店プティ・フール』『ガーデン』『人形たちの白昼夢』などがある。