#38

恩師の蕎麦

 昔、病院で医療事務をしていたことがある。診療所にもいたし、大病院にもいた。大病院ではとある外来診療科にいて、朝から夕方まで受付や診察室に立っていた。忙しいときは昼ごはんも立ったままおにぎりを食べていた。

 毎日、痛かったり苦しかったりする人々が押し寄せてくる。問診票を書いてもらい、明らかな症状がでている人は看護師や医師に報告して、先に検査を受けてもらったり隔離したりする。私のいた科には医師は八人くらいいたが、病棟の仕事も手術もありいつも人手不足だった。患者の待ち時間がどうしても長くなる。ぐったりしてきた常連さんに「○○さん、最近どうですかー」などと声をかけ、「どうもこうもあらへんわ!」と唾を飛ばして怒ってくれるとほっとした。

 医療行為ができない自分の仕事は、一秒でも早くスムーズに患者を医師に診てもらえるようにすることだと思っていた。けれど、医師は激務でみんな疲弊している。一人でも倒れたら、その分、診てもらえる人は減ってしまう。なので、私は自分の科の医師のケアに腐心した。当直日や受け持ち入院患者数を常に把握し、電子カルテを見て前日の晩に病棟からの呼び出しがあった医師にはあまり患者さんをまわさないようにしたり、診療中に疲れが見えてきたら甘いものを差し入れたりしていた。役に立っていたかはわからないけれど、科の医師たちも病院も好きだった。

 医師たちの中でも飛びぬけて甘党だったのは以前も書いたことがあるO部長で、「死んだら棺桶にあんこを詰めてくれ」が口癖だった。暴君として名高い人でもあった。O部長の診察室は受付の後ろだったので、あれこれ訴える患者に「人の話を聞きなさい!」と怒鳴るO部長の声がしょっちゅう後頭部を震わせていた。検査科からの結果が遅いと、止めても怒鳴り込みに行ってしまう。あんなにも誰かれ構わず叱りつける人間を知らない。

 看護師たちは青ざめ、O部長とは目も合わせられない人もいた。院内が電子カルテになったとき、師長は「これで、O部長にカルテを投げつけられないで済む」と苦笑していた。ちなみに、O部長は電子カルテの習得が遅かった。診察室から「どうなっとるんや、これ!」と怒号が飛んでくると「はいはい、教えてあげますね」と恩を着せた。「屈辱や」とふてくされていた。

 そんなO部長は手術が生きがいで、手術も診察もない日は「先生」と呼ばれることを嫌がった。廊下で会って声をかけると「先生ちがう、今日の僕はただのおっさんや」と背中を丸めて逃げていった。他科や病棟と小競り合いをしても、患者についての愚痴は聞いたことがない。

 業種が違うのでO部長に仕事のことで教わったことは少ない。けれど、常にプロであろうとする気概は学ばせてもらった。O部長はよく食事にも連れていってくれた。食事のマナーに厳しく、親以外で食べ方を注意してくれた人はO部長以外にはいなかった。食を愛する人だった。それは病院でも変わらず、たまに食堂に行っては「○科の部長が目の前で音たてて食べよって、僕の楽しみにしとったオムライスが台無しになったわ!」と怒りながら帰ってきた。「よくまあ、部長になれましたね」と言うと、「揉めた奴はいつの間にかいなくなっとるからな」と恐ろしい冗談を言って笑っていた。

 小説家になったとき、O部長は万年筆をくれた。象牙色の美しい万年筆だった。サイン本を渡すと「古本屋に売れなくなるやろ」と憎まれ口を叩いていた。
 今でもときどき電話がかかってきては「元気にやっとるか」と訊いてくる。「元気です」と答える。一年に数回一緒に食事をする。七十を超えたが、まだ現役で手術をし、「昨日な、百十キロの患者やってんけど、三センチで済む内視鏡の傷が六センチになったわ」などと、それは食事のマナー的にどうなのかというような話をしている。

 先月、そのO部長が蕎麦を持ってやってきた。蕎麦道場に通っていて、自分で打ったと言う。丁寧に包装されていて、茹で方まで書いてあり、几帳面な人だったことを思いだした。

 大鍋にたっぷり湯をわかし、ざる蕎麦にして殿と食べた。香りが良く、すごくおいしかった。四人前を二人でぺろりと食べてしまった。白濁した茹で汁も蕎麦湯にして飲んだ。とろとろしていて、少しも嫌な匂いがなく、やっぱり市販の乾麺とは違うねと言い合った。

 わざわざ電話するのも気恥ずかしかったので、メールで「おいしかったです」と伝えた。O部長はせっかちなので、今まで用があるときはほとんど電話だった。その夜、「昨日は楽しい時間をありがとうございました」と丁寧な返事がきた。一瞬、誰? と思ってしまう。蕎麦に関しても「暑くなったから、そのぶん美味しく感じたのかもしれませんね」と謙遜していた。メールの文面と本人とのあまりの違いに驚愕(きようがく)した。

 本当の姿はどちらかなんてわからないし、意味もないけれど、情に厚い優しい人間だと知っている。飲んでいるときに私が悩んだり疑問に思ったりしたことを話すと、「おかしいと思ったことはどんどん声をあげていけばええんや」といつも肯定してくれる。きっとO部長も病院ではそうしていたのだろう。問題意識を持つことを忘れない人だった。

「あんな繊細な味は知らなかったです」と打って、送らずに消した。暑さのせいなんかではなく、信頼している人が作ってくれたものだからよりおいしいのだ。あんがい謙虚なO部長は一生気がつかないだろう。

イラスト 北澤平祐

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著者 千早茜プロフィール

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。
2008年「魚神」で第21回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補、吉川英治文学新人賞候補となる。近著に『人形たちの白昼夢』『クローゼット』『正しい女たち』などがある。