#27

大人の拒絶

 子供と大人を分ける境界線に「飲みもの」があると思う。
 誕生会などで子供たちが集うテーブルと、宴会などで大人たちが羽目をはずすテーブルでは、食べものは同じでも飲みものがまったく違う。母親と一緒にお茶に招かれても、子供にはソーサーつきのティーカップはでてこない。子供の私にとっては、それはちょっとした屈辱だった。

 大人になれば、優雅に紅茶を飲み、食事中には酒を(たしな)み、食後はコーヒーと煙草で一服できるようになる、と幼い私は思っていた。父親の()れるコーヒーの香りが、休日の朝の匂いだった。夜の残滓(ざんし)のような黒い液体がぽたぽたと落ちるのを眺めながら、大人になる日を待った。

 アフリカの、ちょうどコーヒーベルトと呼ばれるコーヒー栽培に向いた地帯に住んでいたので、庭で父親とコーヒーの木を育てたことがある。真っ赤に色づいた実を摘んで、ぬめぬめする果肉を洗い、鹿の足跡みたいなかたちの白い豆を取りだした。「これを焙煎(ばいせん)するとコーヒーになるんだよ」と父親は言った。その豆は帰国するときに空港で没収されてしまい、自分で育てたコーヒーを飲むという夢は叶わなかった。

 あのとき、豆を無駄にした呪いがかかったのかもしれない。私はいくつになってもコーヒーが飲めないままだった。大人になって酒も茶も楽しめるようになり、偏食もなおったのに、コーヒーだけが駄目だった。いまもまったく飲めない。
 おいしいと思えない。呪いのかかった私の舌では、焦げた豆の汁、としか認識できない。淹れたてのコーヒーの香りをアロマと言われても、焦げ臭くてくしゃみがでる。自家焙煎のコーヒーも缶コーヒーもインスタントコーヒーも、薄い濃いの差はあれど、ただの苦い液体だ。

 コーヒーはなんとなくお洒落だ。珈琲と漢字で書くとレトロだし、ブラックで飲んでいたらシックな倦怠感(けんたいかん)がただよう。フランス映画にでてくる「キャフェ」なんか、大人お洒落の殿堂だ。
 ミルクと砂糖を大量に入れれば、一杯くらいはなんとか飲める。しかし、それでは子供の頃と変わらない。格好がつかない。ブラックコーヒーが飲めるか飲めないかで、大人と子供の線引きをされると非常に不利だ。世界中で嗜好(しこう)されている飲みものだけに、自分の味覚に自信もなくなる。

 舌だけでなく、身体も拒否反応を示す。ブラックコーヒーと私の胃液の相性が悪いのか、飲んだあとは胃の調子が悪くなる。空腹状態で飲んでしまうと、ずっとコーヒーと胃酸の混じった臭いが込みあげてきて気分が悪くなる。一度、殿に頼まれて深煎りのコーヒー豆を買い、そのまま友人たちとごはんを食べにいったことがある。座敷の店だった。鞄と私の鼻の距離が近い。念のためにチャック付きの保存袋を持参し密封したというのに、鞄からコーヒーの匂いがもれてきて、嗅ぎ続けながら食事をした私は帰宅したあと吐き気と胃痛でのたうちまわった。おそらく、強いコーヒー臭のせいで胃が「コーヒーくるぞ! くるぞ!」と待ち構えて過剰反応してしまったのだと思う。

 コーヒーが飲めないと、困る局面が多々ある。コーヒーが「とりあえず」ドリンクだからだ。打ち合わせで通された会議室で、取材先で、トークショーなどの控室で、「まあ、とりあえず、どうぞどうぞ」とでてくるのはコーヒーだ。そこで、コーヒーを飲めない旨を伝えると慌てふためかれる。お茶は持参してます、とペットボトルを見せるも、ひとつだけ余ったコーヒーカップを満たす黒々とした液体に気まずくなる。相手の好意を拒絶したようで申し訳ない。ちなみに、私はビールも得意ではないので、飲み会での「とりあえず、みんな生でいいね!」みたいな空気にも水を差してしまう。ひきこもりの小説家になって心から良かったと思う。

「お茶しましょう」と言われて、サイフォンがずらりと並ぶこだわりのコーヒー屋に連れていかれると、うっとなる。私にとっての「お茶」にコーヒーは含まれないが、大人の世界ではコーヒーは誰もが飲める「お茶」だと考えている人が大多数のようだ。
「え! 飲めないんですか?」と驚かれると、つい「はい、すみません……」と謝ってしまうことがある。すると、相手にも気を遣わせてしまう。アレルギーではないので、我慢して飲んじゃおうかな、と気持ちが揺れたりもする。

 本当は、飲めないものを飲めないということに謝る必要はない。どんな食べものも飲みものも無理して身体に入れる義務はないのだ。居合わせたみんなが同じものを食べなくてはいけない決まりもない。それぞれ別の個体なのだから、合う合わないがあるのが当たり前だ。わかっているのに、コーヒーの持つ「大人なら飲めるでしょう」という威圧感に負ける。悔しいと思う。

 食べられないものを人に伝えるのは気疲れすることだ。けれど、食の愉しみを享受できることが大人の特権なのだから、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いときっぱり主張して、食の自由を謳歌(おうか)したい。私にとってのコーヒーは、本当の大人とはなにか、を自分に問いかけてくるものだ。拒否する罪悪感に負けず、コーヒーを断り続けたい。

 人がくつろいだ表情でコーヒーを飲んでいるのを見ると、父親と摘んだコーヒーの実を思いだす。太陽の熱を吸い込んだように赤く輝いていた。父親の目を盗んで舐めた果肉は青臭く、ほのかに甘かった。

イラスト 北澤平祐

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著者 千早茜プロフィール

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。
2008年「魚神」で第21回小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補、吉川英治文学新人賞候補となる。近著に『西洋菓子店プティ・フール』『ガーデン』『人形たちの白昼夢』などがある。