とうかさん(5)

「その怪我は?」
 と、おふくろは目敏く、おれの小指をくるんだセロテープに言及してきた。隠そうとしても見付かるに決まっているから、おれはその労を選ばなかったのである。
「さあ。コロンボと格闘しよったとき、どっかに引っ掛けたんじゃろ」と用意してあった素朴な嘘をついた。「助けたバセットハウンドの名前」
 ふうん、と彼女は鼻を鳴らして、それ以上は問わなかった。信じてはいまい。右手の小指だというのがいかにも(まず)い。ギターを弾くのに使わない指を選んだのがありありだ。
「『刑事コロンボ』に出てくるけえコロンボね」
「たぶん」
「犬と飼い主が混ぜこぜになっとりゃせんね」
「フランケンシュタイン現象じゃ。ありゃあモンスターじゃなしに、それをこさえた科学者の名前じゃけえ」

 ホテルは送迎用のコミューターを出してきたが、それにコロンボを運び込むまでが、とにかく難儀だった。抱えられたら激痛に見舞われると学習してしまったので、梃子(てこ)でもそうさせてくれない。人が覆い被さってくる気配に唸り、威嚇する。退かずにいると吠える。そして吐血する。
「ほかの犬に噛まれても怒らんくらいの犬なのに——」
 と、少年は愕然としている。こちらの名前は篤朗(とくろう)といった。トク、トックンなどと呼ばれているなら犬とあべこべだと思ったが、気付いていないかもしれないから云わずにおいた。コロンボ刑事の飼い犬の名は、(ドッグ)だ。
 われわれは()むなくコロンボの鼻先に担架を縦に敷き、宥め(すか)しながらその尻を押す作戦に出たが、むしろ前肢を突っ張って後退されてしまった。ホテルの連中は、反対側にも担架を敷いておけばどうか、などと相談している。
 数人がかりでふん捕まえれば、運ぶばかりは運べよう。しかし文字通り必死の抵抗を示して、暴れ死にしかねないと場の誰もが思っていたし、それはあながち間違いではなかったのである。折れた肋骨が二本、肺に刺さっていることが獣医院で判明した。
 見兼ねたおれは集団から離れ、鉢植えの陰で、キイホルダーにしているアーミーナイフの刃を出した。外科手術用のメスをイメージして研ぎ澄ましたそれで、右の小指の腹を裂く。もちろん痛い。慣れた痛みだ。
 集団の中に戻り、担架に膝を突き、説得を試みているような素振りで、手を犬の鼻先へと寄せた。犬は舐める。血を舐める。
 やがてコロンボが匍匐(ほふく)を始めてくれたのが、どういう意味合いでの血の効能であったか——少しでも苦痛が遠のいたのか、それとも余りの美味に首を伸ばし続けたのか——を知るすべはおれにはない。ドリトル動物病院も看板に偽り有りで、医師は「動物語」を習得してなどいなかったし、通訳を買って出てくれる鸚鵡(おうむ)のポリネシアも居なかった。
 代わり、みらいから連絡を受けた篤朗の母親が待ち構えていた。篤朗をトックンと呼んでいた。思っていたよりずっと若い、おれたちと同世代と云っても良いくらいの女で、みらいの母親でもあるとの設定に無理が生じたが、ホテルの者が齟齬に気付いたとしても無粋は云うまいし、云われたところでみらいなら巧みに言い繕うだろう。
「セロテープ、ある?」と受付の女に問う。
 仮初(かりそ)めにも医療関係者、おれが右手の指を束ねて傷を押さえているのに気付き、「サビオ、ありますよ」
「いや、セロテープでええ」
 でんっと台ごと目の前に置かれたので、十センチほど頂戴して傷の上をくるんだ。鋭い刃物による皮膚裂傷は、元通りに閉じておけば癒合する。ガーゼ付き絆創膏では傷が開いてしまって、却って治りが遅い。
 篤朗とその母親が診察室から出てきた。これから緊急手術だと云う。おれとみらいは外の空気を吸いに出た。待機していると思っていたコミューターは、医院の前から姿を消していた。
「置いてけぼり。そっか、家族だと思ってるから」
「ぼくらも、もう()いでしょう。いったん着替えに戻ります、すぐ近所だから。待っといてくださったらホテルまで送ります。たいした距離じゃない」
 みらいは医院の玄関を振り返り、「轢逃(ひきに)げした車の特徴はお伝えしたから、もう用事はありませんが」
 おれはすこし迷い、宣告を決意した。どうもこの女とはこれきりで終わりそうにない。すると避けていられる話題ではない。「雑賀さん、残念ながら警察は動いてくれないでしょう。子供の頃、同じような目に遭った経験がある。そのとき警察官に諭された。運転者を特定できたとしても器物損壊にしか問えない。しかも犬のほうにも飛び出した過失がある」
「器物!?」
 車道を渡り、元安川沿いの遊歩道を進んだ。そして間もなく、みらいに川面を見せてやろうというこの自分の配慮に、みずから感謝した。二、三十メートル先の車道を隔てた処に、煙草を()っているスカジャン姿を見出したのだ。一輝(いっき)だ。
「どうしたんですか」
 おれが街路樹の傍で立ち止まり、シャツを脱ぎだしたのを、みらいは不思議がった。一輝を視界の端に捉えたまま、
「通行人を驚かせんように」
「あ、そうですね。見慣れちゃってました」
 彼女と睦まじげに歩いているのを見られ余計な誤解を招くのも面倒だったが、それより何より一輝に見せたくなかったのが、血染めのシャツだ。
 おれに気付いてこっちに渡ってこられたらどうしたものかと困っていたところ、車道を滑ってくる一台のタクシーを見出した。空車だ。反対方向だったが、
「やっぱりこのまま行きます。もうだいぶ遅刻しとる。乗りましょう」と緑地を踏み越えてそれを停めた。

 斯くして、殺人でも犯したてのような風体での、リオン来店と相成った次第。
 香西がご満悦の(てい)で上がってきて席に戻り、おれが注文した飲みものが来て、ようやっと食事が始まったかと思うや、もう両手に大きな紙袋を提げたコーネルの店員が入ってきた。余程のこと急かされたらしい。
 香西から袖を通してみろと云われては羽織り、或いはトイレへ行って穿き替える。どっちが()いかと問われても、興味のない服と興味のない服では較べるべくもない。そのうえ開始が遅れたぶん、料理は矢継ぎ早に運ばれてくる。
 何を食っているんだか着せられようとしているんだかよく分からぬまま、気が付けば香西とおふくろを乗せたタクシーは遠ざかりつつあり、おれはズボンの裾を仮留めした七五三のような風体で、夜の街に取り残されていた。
 雑沓(ざっとう)は騒々しくも白々しく、得体の知れない胸騒ぎが去来した。おれは何時(いつ)までこんな街で(くすぶ)っているのだろう。
 店のウィンドウに映った自分を一瞥、この姿をみらいに披露して一緒に笑いこけたなら気も晴れようと思い付いたが、我慢してまっすぐ加古町のワンルームに帰った。案の定、一輝が居て、おれのパソコンを勝手に立ち上げ、ウィザードリィに興じていた。
「お帰り」と振り返って目をまるくし、「なにその格好」
 おれはブレザーを脱ぎ捨てながら、「雑誌の取材じゃった」
「その就職活動みとうな格好で?」
「いや……話せば(なご)うなる」
「取材が入るいうことは本が売れとるんじゃね」
「ブームは終わったよ」
「ほんまに?」
 顎を引いての上目遣い。この表情。胸中に暗雲が垂れ込めていく。
「なんの用があって来た?」
「何時でも来て、勝手にしとって()え云うた」
「ほいなら好きにしといて好きなとき帰れ。金なら貸さんで。貸してほしけりゃあ、これまでのを返せ」
「そう云う思うた」
「当たり前じゃ」
 一輝は再びディスプレイに向かった。肩甲骨と背骨がTシャツを複雑に押し上げている。
「好きにして可えが仕事道具は別とも云うた筈じゃ」
 背中を向けたまま、「ウィザードリィしか触っとらんよ」
「おまえがそこに居坐っとって、おれはどうやって原稿を書くんや」
 聞こえよがしな溜息のあと、一輝は腰を上げ、椅子の背に掛けてあったスカジャンを摑んだ。「帰るわ。了くん、変わったよね」
「流石に愛想が尽きただけじゃ」
 目を合わせることなくおれの横を擦り抜けていく。紐を緩く掛けたスニーカーに足を入れ、爪先で床を蹴る。
「飯は食うとんかいの」
 答えず、ドアを開ける。もう来ないかもしれないと思うと胸が痛んだが、ここで甘い顔を見せたら本人の為にならない。
「なんぼ要るんじゃったんや」なかば別れの挨拶の心算(つもり)で訊いた。それが運の尽きだった。
「三千万」
 約十五秒後、「はあ?」

(つづく)

不定期更新

更新情報はTwitterでお知らせしています。

著者 津原泰水(つはら・やすみ)プロフィール

津原泰水(つはら・やすみ)
1964年広島市生まれ。学生時代から津原やすみ名義で少女小説を手がけ幅広い支持を得る。97年、現名義で長編『妖都』刊行。2012年、『11』が第2回Twitter文学賞国内部門1位。2014年、近藤ようこによって漫画化された『五色の舟』が第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞。著書に『綺譚集』『ブラバン』『バレエ・メカニック』等がある。