京橋会館(6)

「三千万と聞えたが、三千円の聞き違いかの」
 と慎重を期して問えば、どうして伝わったのだろうとでも問いたげな、空惚(そらとぼ)けた顔付きで振り返り、
「もうね、吃驚(びっくり)したよ」
「こっちの科白(せりふ)じゃ。改めて訊く。おまえが貸してほしいのは三千円か?」
 一輝(いっき)はおれの顔を見詰めている。
「三千万円か」
 今度はちょこんと頷き、お遣いに来た子供のように、「そう云われた」
「誰から」
曾根崎(そねざき)、左利きの。広島駅の近くでばったり出会(でくわ)して、広島に()るんがばれてしもうた」
「知らんの」
「まあ、そういう奴」
「終わるな。ふつう説明が始まる場面じゃろうが」
「云われても」と頭の後ろに手をやり、「どこからどう説明したらええんやら。まあ上がってゆっくり」
「それもこっちの科白じゃ」
「ということは、()えんね?」
「勝手にせえ」
「泊まっても?」
「また調子こいてから。これからの話によりけりじゃ。胸糞(むなくそ)悪いようなこと云いやがったら、即座に叩き出す」
(りょう)くん、いまぼくに(つめ)とうしたら後悔するよ。了くんにも頼れんかったら、ぼく、曾根崎の野郎に八つ裂きにされるんじゃけえ」
 みずから発している言葉の意味を、解っているようないないような調子でぼやきつつ、一輝は両足を擦り合わせて、履いたスニーカーをまた脱いだ。
 不動産屋は「ワンルーム」と云い張った。その内実は壁を取り払っただけの2DK、振分けになった二間は、片方が和室で片方が洋室のまま、段差や敷居もそのままというぞんざいさだ。前の住人はこの部屋を借りるのではなく所有していた。なぜ壁を取り除く必要があったのかは聞かされていないが、察するに、順次改装していく計画の半ばで所有権を放棄したのではなかろうか。
 ともあれこの中途半端な状態のお蔭で、おれは相場より相当に安く契約を結び、香西(かさい)との同居生活から脱することが出来た。デビュー作『すでに地上を離れ』が店頭に並び、翌月、印税なる、それまでの人生で与えられたなか最も桁の多い数字――が預金通帳に打刻されるや、いの一番におれがとった行動だ。
 新しい文章など一行も書いていないというのに出版社からの振込み通知が後を絶たず、貯金が膨れ上がっていたあいだは、なぜもっと見映えの良い住処(すみか)を選ばなかったのかという驕慢な想いにもかられたが、重版のペースが落ち着いて増額分が引き落とされる家賃や光熱費と相殺するようになり、さらにバランスが逆転して総額が目減りを始めてからは、まあ分相応か、より手狭な部屋でも良かったと思い始めている。山中から(さと)に脱してくる前の祖母は、立ち上がると頭の当たる、古布をパッチワークした天幕の下で寝起きしていたという。出入口は笹で塞がれていたという。それがサンカの家だった。
 二間の境の五センチほどの段に腰をおろして、一輝はおれの顔を見上げた。戸籍上はイチテルという珍しい読みだが、誰もそうは呼ばない。呼ぶ以前に知らない。おれも知らないことになっている。
「続きを」
 と空いている自分の椅子に腰をおろして促すと、一輝は一息吸って、勢い込んで、
「あのとき冷とうしとらんかったら、一輝を死なさんで済んだのにいうて後で後悔しても、了くん、ぼくに謝ることは出来んのんよ。はあぼくは死んどるんじゃけえね」
「そういう続きはええ」と押し止め、「その曾根崎いうんの話じゃ。どこの何者や。左利きなんか珍しゅうもないのに――いうかおれもそうじゃが――わざわざそう呼ばれとるいうんは、よっぽどの酒飲みいう意味か」
「了くん、左利きなん?」
 一輝はしばしばおれを唖然とさせる。「気付いとらんかったんか。箸、左で持ちよろうが」
「ただ適当なんじゃ思いよった」
「適当に反対側の手に箸持って拉麺(ラーメン)が食えるか。利き手でもまともに持てん(もん)ばっかりじゃいうのに」
「ほいでもギター、右」
「ギターは右で覚えた。左用はあんまり売っとらんし、売っとっても、なんか見た目が気持ち悪い」
「解る解る。型によっちゃあ反転しとったら、凄い変な形に見えるよ。左利きの人には普通に見えるんか思いよった」
「脳味噌が反転しとるわけじゃない」
「反転しとるんじゃないん?」
 いざ問われると、些か自信がなくなり、「たぶん」
「左利きの人は酒に強いん?」
「いやいや、ただ酒飲みを左利き云うんよの、昔から。(のみ)で物を削るとき、右手でとんかち、左手に鑿を持とうが。ほいじゃけえ左手は鑿手(のみて)」と左手で盃を干す身振(ジェスチュア)をして、「つまり飲み手(ゝゝゝ)よ、昔の職人言葉じゃ」
「さすが作家」
「2DKの賃貸に住んで作家もないわ」
「子供の頃からそうように物識(ものし)りなん」
「本はよう読んだが……いや、べつに普通じゃったよ。ただ本は好きじゃった。出版社に原稿を渡すじゃないか、ほしたら校閲(こうえつ)係いうんがおって、細かい間違いをいちいち添削してくるわけよ。そのままにしといても通じようもんじゃが、見逃しちゃくれん。辞書や事典には違うように載っとりますいうて、そのコピーを貼り付けてくる。ここ読め、いう箇所が蛍光ペンで囲うてある。あるときその蛍光ペンが無性に腹が立っての」おれは書棚の下半分を占拠している平凡社の世界大百科事典一式を指差し、「その日のうちにそごうに入っとる紀伊國屋書店であれを注文して、知らん言葉は片っ端から調べるようになった。いや、知っとる言葉もじゃ」
「そごうに紀伊國屋が入っとるんじゃのうて、広島センタービルに両方が入っとるんじゃ思うけど」
 おれは相手の顔を指し、「そういう揚げ足も取ってくる。小説にそごうや紀伊國屋を出したわけじゃないが、普通の人間の会話がビルとテナントの関係性に厳密じゃったり、言葉の辞書に載っとる定義に忠実じゃったら逆に不自然じゃろうが。ホッチキスを出したら『ホッチキスは商品名で一般名称はステープラですが、このままで宜しいですか?』と訊いてきた。ステープラ、通じるか? 『ステープラ()うてこい』云われたら一輝は何を買うてくる?」
「……天麩羅かな」
「そうようなとこよ。ほいじゃがこっちが意地を張って作品にホッチキスを残して、それを読んだ人がどっかで『一般名称はステープラですが』いうて嗤われて、『畜生、界暈(さかいかさ)()い加減に書きやがった所為(せい)じゃ』いうて恨まれたら思や、悩ましい」
「結局、どうしたん?」
「ホッチキスのこと考えるのが厭んなって、ホッチキスでもステープラでもなしに、ゼムクリップにした。道理で、世の中の小説にあんまりホッチキスが出てこんわけじゃ。そんなこんなで、作家がホッチキスのことを考えとうなくなるんじゃ」
 話しながらおれは、なんとなく一輝の耳を見詰めていた。初めての遭遇に於いては真っ赤に染まっていたそれを。一輝ははっと頭の天辺(てっぺん)に手をあてて、
「ぼく、禿げるかね」
「またその話か。べつに頭を見よったんじゃない」
「どう思う?」
「はあ禿げとるけえ、諦めて曾根崎の話をせえ」
「ほんまに?」
「正直、天辺の地肌は透けて見える。猫っ毛なんじゃけえしょうがない」
「育毛剤したら増えるかね」
「毛穴が増えん以上は毛は増えん。一つの毛根から五本も六本も生えとる奴もおるらしいが、おまえはそういう血筋じゃない。禿げたらなんか被れ。曾根崎が左利きなんは手か?」
 一輝は不服そうに、「わしの右手が見たいんか」
「なんじゃ、そりゃ」
「あん(なあ)の口癖」
「……ボクサー?」
「違うんよ。生まれつきか事故でか知らんけど、右手が無い、手首から先がきれいに。ほいで『あの世でわしの右手に会わしたる』とか『右手で地獄に引き摺り込んだろか』云うんよ」
「なかなか文学的なの」
「ありゃ文学青年よ。いっつもポケットに文庫本が入っとる」
「どうような本か見たことあるか」
「あるけど憶えとらん。あ、ええとね……マルクスいう作家、おる?」
「作家というか。マルクス?」
「マルケスじゃったかな。あと日本人で中の字が二つある名前」
 肩の(はり)が外れた。「中原中也? いったい何者や」
一往(いちお)瀬岩(せいわ)会の――」
 顔が強張るのを感じた。「構成員か」
「いうわけじゃのうて、その仕事を請け負うとる」
 ほ、と吐息し、「ちんぴらか」
「ちんぴらじゃのうて殺し屋」
「殺し屋ね。殺人犯じゃのうてよ。いったい何人ぐらい殺したら一端の殺し屋になれるんかの」
「八人」
「えらい具体的なの」
「曾根崎がこれまでに殺した数」
「自己申告じゃろ」
「まあ、そう」
 おれは鼻を鳴らした。「はったりじゃ。八人も殺した人間が、のうのうと駅前を歩けるか」
 反応が心外だったようで、一輝は唇を尖らせ、「手伝(てつど)うたことあるよ」
「人殺しをか」
 肯定とも否定ともとれる、曖昧な頷き。
 おれは改めて、「おまえも、一緒に、人を、殺したんか?」
「手伝うたのは……準備をね。借金を返そうとせん社長を、瀬岩会の人らが出島の船着場まで引っ立ててきて、ぼくらはそこでドラム缶でコンクリを捏ねとる役」
「これに詰めて海に捨てたるぞ、いうてか。ほいで殺したんか」
「いや、なんかの書類に名前を書かせて、血判を押させて、帰した」
「ほうじゃろうの。おまえは脅しのための小芝居を手伝わされたわけよ」
「曾根崎は殺したがっとった。ほいでも瀬岩会の人が止めたんよ」
「当然じゃ。殺したら金を回収できん。元も子もない」
「了くんは思考回路がやくざなんよね」
()りげなく非道(ひど)いことを云いやがる」
「瀬岩会の側の理屈で考えとる。でも曾根崎は殺し屋。殺してその死体を片付けて、手間賃さえ貰えりゃそれでええんよ。殺せば殺しただけ金になる。ほいじゃけえ、ほんまに殺したがっとった」
 一理あった。
「狂うとるの」
「完璧に狂うとるよ、曾根崎は」
「幾つぐらいの奴や」
「三十ぐらいかなあ。老け顔なだけで、ほんまはもうちょっと若いんかなあ」
 背凭れに身を預けて腕を組み、脚を組み、おれは正直なところ、存在しない右手で人を地獄に引き摺り込むと(うそぶ)くその男に、並々ならぬ興味をおぼえ始めていた。いつか対峙する相手のような気がする。
 翻ってこちらはほんの数時間前、右手の先から血を滲ませてバセットハウンドの命を救っている。動物病院に問い合わせたわけではないが、コロンボの命拾いは確信している。鳥獣での実験はだいぶ重ねた。あれは生き延びる者、戻る方向を見失っていない者の舐め方だ。倫太郎(りんたろう)はそうではなかった。(すす)らせる量が足りなかったとは云えようが、倫太郎にはそもそもそうする意思がなかった。おれは、間に合わなかったのだ。
 生き延びる者は肉食だろうが草食だろうが、懸命におれの血を舐め、奇蹟を起こす。おれが救うのではない。彼らが自力で引き返すのだ。ジリョウジの血はその生命力の、起爆剤に過ぎない。逝こうとするものは引き戻せない。
「で、何をやった?」
 そうとしか問わなかったが、聞き出したいことは解ったらしく、一輝は視線を泳がせたあと、
「放火」

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著者 津原泰水(つはら・やすみ)プロフィール

津原泰水(つはら・やすみ)
1964年広島市生まれ。学生時代から津原やすみ名義で少女小説を手がけ幅広い支持を得る。97年、現名義で長編『妖都』刊行。2012年、『11』が第2回Twitter文学賞国内部門1位。2014年、近藤ようこによって漫画化された『五色の舟』が第18回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞。著書に『綺譚集』『ブラバン』『バレエ・メカニック』等がある。