08 未来の自分

 エレベーターが七階に到着し扉が開いた瞬間、諦めと共に、いらっしゃいませと言われるタイミングを見計らってイヤホンを外す。最近イヤホンを外す瞬間いつも思う、この音楽のない世界に戻ることは死に等しいのではないだろうか。いらっしゃいませという言葉にこんにちは、とにこやかに答え、受付でメンバーズカードを出しながら、想像でしかないけれどへその緒を切り離された胎児の悲しみに近いものを感じる。イヤホンを外すたび、私は自分を内包する暴力的な強度を持った現実に傷つく。
 お酒やドラッグ、ギャンブルや恋愛などと違い、音楽依存による弊害は聞いたことがないが、ここ最近音楽への依存が激しくなっていることに不安がなくもない。最近は寝る時もイヤホンで音楽を聴きながらベッドに入る。たまに激しいイントロで動悸の中目覚める。悪夢を見て起きると大抵イヤホンのコードが身体に巻きついている。
 ウィーンと倒れていく施術台に寝そべりながら、本日もいつも通りCカール140本でよろしいでしょうか? と聞く店長の長野さんにいつも通りでお願いしますと微笑む。美容師と世間話をしながら、新刊のインタビューを受けながら、子供達の担任と彼らの学習や教育について話しながら、気心の知れた友達と飲みながら、常に人と向き合いながら、激しい乖離を感じる。音楽を聴いている時、きっとその乖離が軽減されているのだ。中毒になるものというのは、往々にしてそういう性質のものなのかもしれない。自分との融合を感じられる瞬間が、脳を溶かすのだろう。でもどうして自分と融合しなければならないのだろう。どうして自分がこんなに乖離しているのだろう。
 つまり依存体質でない人間というのは、自分自身の中に乖離を感じていない人なのかも知れない。そう考えるとこれまである種の人々に対して感じてきた違和感が少し解消された気がした。一本一本まつげにエクステを接着されながら寝落ち、ビクッと起きてはエクステが瞼の隙間に刺さり、染みる接着剤に涙を滲ませる。すみません、という長野さんの言葉に、いえ、と答える。自分が悪いのだ。自分の責任だ。この人生の全ての根拠は自分にある。人生に対する巨大な無力感に、そんな思いが被さる。

 

「昔の自分が想像していた、あるいは理想としていた未来の自分と比べて、今の自分はどうですか?」
 ファッション誌のインタビューの終盤に飛び出した質問に、頭が真っ白になる。そもそもこうなりたいとかこうでありたいとかいう、余裕のある生き方をしたことがあっただろうか。死なないことに重きをおいて行動し続けてきた時間の積み重ねがこの人生であったというだけの気がする。マズローの欲求五段階説では食欲や睡眠欲など生命を維持するための本能的な欲求が第一階層とされているが、その第一階層の欲求に対立する破滅衝動、消失衝動のようなものが時折足元から湧き上がり生理欲求を押しつぶそうとする。だから私は今も緩やかに摂食障害で、緩やかに睡眠障害で、緩やかな消滅願望を持て余している。でもそんなの、溢れかえった物々の中で生きる現代人にとってはある程度デフォルトなのかもしれない。
 未来像をあまり想像もしていなかったし理想も持っていなかったと答えながら、胸が苦しくなってくるのを感じた。かつての私は未来の自分を想像する余裕など微塵もなかったはずだけれど、少なくとも今のような自分になるとは思っていなかっただろう。人生の中で最も死に近づいた十四歳の頃から、きっと何一つ変わっていない。消えたいと消えたくない、壊したいと守りたい、気丈でいたいとスポイルされたい、愛したいと愛されたい、二十年経っても相変わらず私はそんなことに苦しんで世間的に幸福と言われる幸福を享受できないまま藁をも掴むように一日一日を生き長らえているだけだ。昔に比べて傷つくことは減った。外部のあれこれを自分と切り離して考えることができるようになったからだろう。そういう技術を体得し生きやすさを手に入れたと同時に、その生きやすさの上にある人生すら思うように生きられないという事実に純粋な驚きを隠せない。
「今の質問について考えてたら何だか胸が苦しくなってきました」
 冗談半分に吐露して皆の笑いをとる程度に、今の私は図太くはなっている。憂鬱を持て余し、人、小説、音楽、酒、といった雑草を掴み、崖から落ちる途中のところにしがみついている。この緩やかな消滅願望と共に土の上に捨てられた齧りかけの林檎のようにゆっくりと朽ち果てていくのだろうか。そんな予感はしていたし、これまでの生き方を鑑みればそうなる可能性は高いのだけれど、その予想のつく人生に少しずつ疲弊と絶望が重なり今ここで頽れそうになっている自分がいる。
 瞬間的な心の充足ではなく、絶対的な魂の充足などあり得るのだろうか。そんなものはこの世に存在せず、間を持たせたり凌いだりして、人生は紡がれていくものなのではないだろうか。全てがまやかしで、全てが退屈しのぎ、退屈しのぎに病み、依存できる何かを探し求め、依存した暁には依存に病む。これまでもこれからも、それ以上の人生を送れる気がしない。

 

 にこやかにお疲れさまでした合戦をして、出版社を出てイヤホンを耳に差し込み駅までの道を歩いている途中、一年以上連絡を取っていなかった友達からLINEが入り、名前を見た瞬間思わず「おお」と声が漏れる。本帰国の連絡すらしていなかったことを思い出し謝りつつ会う日程を決める。話したいことがあるんだよねという言葉から、その内容が旦那の不倫か彼女の不倫かのどちらかであることを悟る。ここ数年、女友達の話したいことがあるという連絡の後に語られる話のほとんどがそういう類だ。
 日程と場所が決まり、向こうが送ったスタンプでLINEが途切れると、すぐにまたLINEの通知が入る。レイナからのLINEで、明日彼と会いたいから工作LINEを送ってくれないかという内容だった。一時期距離を取っていた不倫相手とは関係を持ち直したようで最近はうまくやっているようだ。大まかな設定を聞き、明日渋谷で七時から皆で飲んでるから来れたら来てというLINEをさくっと送る。私とはこの間飲みに行ったばかりだから、私の名前を編集して大学時代の友達からの誘いということにするらしい。不倫の相談を持ちかけてくる友達はいても、ここまでえげつないことをさせる友達はさすがにそうそういない。「めっちゃ助かるー! これで多分出れる」と入ってきてスマホをバッグに入れる。彼とうまくいってさえいれば、レイナは幸せそうだ。その手放しの幸福はレイナの置かれた状況を鑑みると病的にも感じられるが、色々ひっくるめて難しいことを考えず幸福を全身で享受できるのは彼女の才能だとも思った。

 

「新社会人五日目どうだった?」
 LINEをくれた友達に一年半ぶりに会いに行く途中、新宿東口のロータリーでチャラい男が声を掛けてきた。イヤホンの向こうからでも聞き取れたその言葉に、思わず笑ってしまう。三十五の口ピの入った女に十八番ネタを披露する雑さに好感を持った。
「新社会人じゃないの? 新社会人一年と五日目? 違う? なに、後輩できないの? いつまでも下っ端のまま?」
 四月一日から、彼はこの手を使ってナンパを続けているのだろうか。だとしたら、何日目までこの手を使い続けるつもりなのだろう。終始イヤホンを外さないまま呆れ笑いをしながら手を振ると、彼はノリ良くじゃあね! と笑顔で手を振った。日本のナンパはなぜこうもバカげているのだろう。フランスではこういう手合いは全くなかった。彼氏はいる? 結婚はしてる? どこかで食事かカフェでも。フランスでは皆大真面目にそうやって声を掛けてきた。だから私も大真面目に結婚していることを伝え、食事には行けないと答えた。日本の馬鹿げたナンパはもはや文化と言っても良いかもしれない。
 イヤホンを外し現実に引き戻される苦しみを味わいながら、炉端焼きを売りにした地下の洒脱な居酒屋に入ると、すでにカウンターに座っていた友達に手を上げる。
 スパークリングを二つ注文したあと聞かされたのは、彼女の不倫でも彼女の旦那の不倫でもなく、旦那の海外駐在が決まったという話だった。一緒に行くの? と聞くと、彼女はもちろんと眉を上げて言う。私海外に住んだ経験ないから、色々聞きたいなと思って。思わずナンパの違いの話をしたくなったけれど、ぐっと我慢して乾杯すると、自分の持っているノウハウと瑣末な情報を全て彼女に捧げようと途端に決意する。彼女に幸せな駐在生活を送ってもらいたかった。仲の良い旦那と二人、異国の地で家族のありがたみや意義を再確認する生活を送ってもらいたかった。ほんの数分前まで彼女たち夫婦のどちらかが不倫していると思い込んでいたくせに、そんなことを思っていた。いやむしろ、そう思い込んでいたからこそ、彼らの幸福を祝福したかったのかもしれない。彼女たち夫婦には、どんな絆があるのだろう。映画でよく見るニューヨーク郊外の一戸建てで暮らす彼らを思うと、矢で射抜かれたような衝撃が胸に走り、そこからだらだらと血が流れるような切なさに全内臓が萎縮した気がした。
 異国に暮らす移民たちにとって家族というのは大きな心の支えであり、それだけで自分を肯定してくれる存在となる。少し前に読んだ、海外生活について書かれた記事を思い出す。
 過酷な異国生活の中でも、私にとって家庭はアイデンティティになり得なかった。家庭とは、成り立たせ回さなければならないものだった。自分は家庭が倒れないように回り続ける歯車でしかない、その思いが鉋のように、硬くなった皮膚を鋭くリズミカルに削り続けているようだった。
 自立して欲しい、自分に依存しないで欲しい、結婚当初からそう言い続けた夫の望みは叶ったと言えるだろうか。「棒がいっぽん」そんなタイトルの漫画が昔実家の本棚にあった。このタイトルがここ数年ことあるごとに頭をよぎるようになった。私はまるで、「棒がいっぽん」そこにただただ転がっているような存在だ。支えたり支えられたりを完全に排除した人間だ。家に帰ったらあの漫画をポチろう。そう思いながら、家具とかどうした? どっか預けた? フランス語すぐ話せるようになった? フランスの病院ってどうだった? と無邪気な彼女の話に、私は一つ一つ、失敗談や苦労話で笑いを取りながら、図太くなった神経で、愛情と老婆心でもって、彼女が幸福な海外生活を送れるよう祈りながら丁寧に答えていく。
 向こうでの生活が落ち着いたらみんなで遊びに来てよ、そう言う彼女に行く行く! と答えて手を振ると、絶対だよ! と彼女も手を振った。背を向けて三丁目の駅に向かって歩き始め、イヤホンを耳に押し込む。流れ始めたロックに少しずつ体が麻痺していく。ほくほくしていた気持ちが少しずつ平熱に下がり、そこからさらに降下していく。駅の階段を下り改札に向かって歩きながら、表情が完全に死に絶え、泣き出しそうな自分に気づく。
 音楽が止まっているのに気づき、もう一度アルバムを最初から流す。また止まっているのに気づいて、また流す。そういうことを続けながら、こうして緩やかに鬱になり、緩やかに回復しては、やっぱり生きたいと思ったりやっぱり死にたいと思ったりして生きていくしか、残された道はないのだろうか。
 こんな自分になるとは思っていなかった。あの質問を聞いて以来、何度もその言葉が胸に湧き上がる。

毎月第1木曜日更新

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著者 金原ひとみプロフィール

1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『クラウドガール』等がある。現在『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」を連載中。