01 カモネギ

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 ハンドルを握る手から血が出そうな寒さの中人っ子一人いない外灯もまばらな道で自転車を飛ばし隠蔽工作に勤しんでいたあの頃の自分の果てに今の自分がいるなんて信じられないと思うと同時にそれ以外にこうなる道筋なんてなかっただろうという気にもなる。ふと横を見ると壁にはめ込まれた鏡に自分の充血した目が映り、目を瞬かせながら立て続けに何度も振動しているスマホを手に取る。スマホに浮き上がったのはユミからのLINEで、ずっと疑っていた旦那の浮気の確たる証拠を掴んだという報告で、その証拠のスクショも送られてきていた。
「私が帰国して早々こんな面白い展開になるなんてな」と入れると、「ほんまやで何で帰国したん」と入ってきて、立て続けに「家出るわ」と続いた。今はバカンス中で頼れる友人たちはほとんど旅行に出ているはずだ。「どこ行くの?」そう入れると、「分からん。どこでもいい」と返ってくる。今のパリはホテルもかなり埋まっているのではないだろうか。でも彼女はどこかに行くのだろう。どこかは分からなくてもどこかに行かなければならない時なのだろう。土地からも人からも重力が消え宇宙にたゆたう屑になったような気分、それはでも、ずっと彼女が求めていたものだったのかもしれない。一通りやりとりをした後ユミからLINEで通話が掛かってきてしばらく話を聞いていたが、簡単には終わりそうになく、適当に相槌を打ちながらお会計を済ませ店を出た。暗くなった道をゆっくり歩きながら、彼女の話を聞きながら、メリーゴーランドが少しずつ速度を落としていることに気づく。ここでの生活が回り始めているのだ。そう思ったら少し気が楽になって、うちの隣の隣が今度空くらしいよとユミに伝える。帰国しよっかなーといつもの調子で言うユミが、いつもの調子を装っていることに気づいているけれど、そこに触れたら彼女が崩れそうで触れられなかった。
 一時間弱の通話を終えると、私は徘徊を止めポケモンGOをやりながら家に向かう。日本限定ポケモンのカモネギを見つけて一瞬テンションが上がったが、ゲットしてしまえばカモネギはただのポケモンだった。日本に住み始めた。その事実を象徴するカモネギにどこか虚しさを感じながら、私はカモネギをクルクル回して隅々まで観察し、ため息をついてから家のドアを開けた。

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著者 金原ひとみプロフィール

1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『クラウドガール』等がある。現在『すばる』にて「アタラクシア」、『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」を連載中。