01 カモネギ

【5 / 6】

 目的も定めぬままずんずんと歩みを進めている内に、帰国して以来見ていると思いながら意外に見て見ぬ振りをしてきたのであろうあれこれが津波のようになってここまで保ってきたあれこれを飲み込んでいくような気がして、思わず奥歯を噛み締める。まだまだメリーゴーランドは止まらない。台風のなか高速のメリーゴーランドに乗り続ける日々はいつまで続くのだろう。このまま家に帰りたくなくて、ふと目に付いたワインバーに入ろうとして禁煙だと気づき、一瞬悩んだ挙句また歩き始める。休める店を探しながら、生まれてからこれまでに経てきた引っ越しを数えてみる。思いつく限りで十五回、アメリカとフランスと岡山以外は日本関東圏が主な引っ越しの数々を思い返し、結局自分がここだと思える場所がどこにもなかったという事実に唐突に心細くなる。皆が「ここだ」と思える場所を持っているのかどうかなんて分からない。それでも十五回経てきた「ここじゃない」は、これからも「ここだ」が見つからない予想へと繫がり、別に安住の地など求めていないしという諦念にしか辿り着かない。
 あそこは確か早い時間からやっていたはずと思っていたバーに入ろうとしたら「18h~25h」という看板が目に入り、ドアに伸ばしかけていた手を下ろす。18hまであと二十分あった。家に帰ろうかなと思ったその瞬間、通りの向こう側にノボリを見つけて無意識的に足を踏み出す。カランカランと音をたてて入ったのは、昔所沢に住んでいた頃バイトしていたファミレスの姉妹店だった。ちょっと油っぽいメニューもテーブルに貼り付けられた期間限定メニューも緑色の灰皿も店員のただ伝達にのみ使われる無感情な声も、楽しそうな学生、今にも死にそうなサラリーマン、話が止まらない女性たち、恐らく常連の老人、何だかよく分からないけれどスマホやPCで何か仕事かゲームをしているらしき人たちといった客層も、全てが懐かしくいらっしゃいませと声を上げにこやかに電卓を打っていた高校を中退したばかりの十六歳の日々を思い起こさせる。
「レモンサワーください」
 私の言葉に機械的な「かしこまりました」を発した店員を見上げた瞬間、グシャンと鈍い音が蘇り、あのバイトの間自分が続けていた二股生活を思い出した。バイト先の浮気相手とバイト上がりにデートをして、バイト先に停めていた自転車で帰宅する途中、彼氏が帰宅する前に帰らなきゃと焦っていた私は赤に切り替わったばかりの横断歩道に飛び出し軽トラックに撥ねられたのだ。自転車はひしゃげたけれど、私は無事だった。叫び声の一つも、涙の一つも出ず、ただ静かに私は道路に投げ出されたまま、浮気相手の元にも彼氏の元にもどこにも帰りたくないどうして私は死ななかったんだろうと思っていた。それでも結局、帰宅時間が遅れた理由が作れたとどこかでほっとしながら、軽トラの運転手に大丈夫ですと呟くと路肩に自転車を放置し半ば森に近い道を四十分かけて歩いて帰り、事故に遭って帰るのが遅れたと彼に言い訳をした。体に痛みはほとんどなかったけれど、背骨がずれているような違和感があって、車体と接触したハンドルを握っていた右手がずっと痺れていた。

毎月第1木曜日更新

更新情報はTwitterでお知らせしています。

著者 金原ひとみプロフィール

1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『クラウドガール』等がある。現在『すばる』にて「アタラクシア」、『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」を連載中。