01 カモネギ

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 パスポート、財布、スマホ、パソコン、最低限それだけ無事に持って帰国できればいい。そう思っていた私は、その旅路でKindle Fireを失くした。友達との連絡手段がKindleでのスカイプだった長女は落ち込んだが、帰国早々私のiPhoneを受け継ぐと即座にスカイプとミュージカリーとスナップチャットをインストールして、Kindleのことはすっかり忘れたようだった。航空会社にKindleのことを問い合わせても該当する忘れ物が見当たらないと言われ、Amazon.frのアカウントとKindleの連携を絶った。その一連の手続きは、自分とフランスとを繋ぐ細い糸がまた一本断ち切られたような気にさせた。
 帰国から三日後には実家に預けていた家具と段ボール箱七十箱が新居に搬入され、その翌週にはフランスから船便で送った段ボールがやはり七十箱届いた。その暴力的な存在を無心のまま選別し、四十五リットルのゴミ袋三十袋を一気に捨て、段ボール四箱分の本をブックオフに送った。
 家電量販店で半ば投げやりに選んだ冷蔵庫がリビングのドアを通らず、猛暑日が続くなか再搬入には一週間を要すると宣告され、やはり投げやりにネット注文したベッドが通らず別のベッドを再検討しなければならなくなった私は完全に思考と感情が停止し、永遠にこの新居に幽閉され片付けをし続けなければならないのではないかという強迫観念に駆られ、先延ばしにしていた役所手続きをしようと家を出た。
 一月前一人で一時帰国をした際、自分だけ実家の住所に転入届けをしていたため約一時間かけて地元に赴き、汗だくになりながら市役所の外にある喫煙所で煙草を吸っている途中、フランスの友達からLINEが入った。涼しさのおすそ分け。という言葉と共に朝露の載った花の画像が添付されていた。天気アプリの37度という表示をスクショすると彼女に送り返し、市役所に入り手続き書類の記入欄にがりがりとボールペンを走らせる。市役所内の人口密度は異常で不安になるが、どのくらいかかるか聞くと転出でしたらそこまで時間はかからないはずですと受付の女性は機械的に言った。
 隣の席に座っている五歳くらいの男の子が大声でぐずり、それを母親が窘めるが、彼女も進捗しない手続きに苛立っていたのか、もういい加減にしなさいと彼を突き放しどこかに行ってしまった。彼はそれでも泣き止まず、今度は祖母と姉らしき女の子に向かって帰りたいもう嫌だと泣き叫ぶ。聡明そうな十歳くらいの姉は読んでいた本に栞を挟み、おいでと彼を抱き上げ膝に座らせようとするが、彼はぐにゃぐにゃと体をくねらせ終いには暴れて姉を何度か蹴りつけた。思わず声を上げそうになったが、姉は慣れた様子で蹴られた跡を手で払っている。祖母はいいわよ放っておきなさいと姉に冷たい声で言った。私は唖然とする。こんなに大声を上げるそれなりに歳のいった子供を母親と祖母が黙らせることもせず何とかしようとする少女に対し放っておけと言うなんて、信じられなかった。

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著者 金原ひとみプロフィール

1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『クラウドガール』等がある。現在『すばる』にて「アタラクシア」、『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」を連載中。