05 ラーメン

 今年も「#️保育園落ちた」のツイートが出回り始めた。このままでは仕事を辞めることになる、という母親たちの悲痛な叫びがこの身に激しく響く。全ての働く女性に仕事を辞めてもらいたくない。せめて子供の誕生を機に仕事を辞める男性と女性の数が同じになるまで、保育園は増やさなければならない。
 入園可の知らせを聞いた時、安堵で泣けてきたという話をよく聞く。寝不足と育児疲れで記憶は曖昧だが、確か私も第一子の入園可の知らせをもらった時泣いた。でもそれよりもよく覚えているのは、保育園に入れなかったらと想像して強烈な不安の中で泣いていた時のことだ。認可に落ちたら、認可外に空きが出なかったら、とノイローゼになってまくし立てる私に、夫は絶対どこか入れるから大丈夫だよとさっぱりした態度で、とにかくやれることはやったんだからという彼の言葉は、私はこの世に一人なのだと思い知らせただけだった。入園可の知らせは、出産して以来ずっと孤独だった私の心に初めて明かりを灯してくれた。
 妊娠した時点でピストルに弾を込められ、出産したら最後ロシアンルーレットに強制参加という未来が待っている中で子供を持とうと思える女性がどれだけいるだろう。職場環境やベビーシッターの普及率など社会の前提が違うが、単純にこれがフランスだったら確実に大規模なデモが起こる案件だ。
 ツイッターをスクロールしながら思わず歯を食いしばっていることに気づいて意識的に力を抜く。途端に周囲にいるスーツ姿の男たちが憎く思えてくる。普通に働くことを当然の権利だと思いやがって! お前らのその保障された社会生活が私たちにとってどれだけ貴重なものか理不尽なリストラでもされて思い知るが良い! こうして女は男を憎み、男は女を愛せなくなる。保育園問題一つ解決できない状況を見ていると、この国を覆う無力感の理由がよく分かる。
 優先席に座り、ベビーカーに手をかけたまま天を仰ぐように上を向いて大口を開けて眠っている女性に、あと二つで終点だよと頭の中で語りかけながら、私は電車を降りて遅れ気味の待ち合わせに向かった。

 

 私はやっぱり女を捨てることはできない。
 二軒目でテーブルに出されたばかりのタパスをつつきながら、レイナはきっぱりと言い切った。そりゃそうだと反射的に呟くが、その後の言葉がぼやける。十代の頃、彼氏の友達の彼女として知り合い、お互いその時の彼氏と別れてからもちらほらと付き合ってきた彼女の視線の強さに、なぜか自分が責められているような気分になる。
 レイナは結婚直後からぽつぽつ旦那の愚痴をこぼしていた。結婚数年で旦那に浮気疑惑が浮上してからは一ミリの共感も思いやりもなく、旦那の話をする時常に苛立ち嫌悪を剥き出しにするようになった。そしてようやく夫への愚痴が出なくなったのは、数年前彼女が不倫を始めた時だった。
 時折不倫相手と会ってガス抜きをしながら家庭を切り盛りする彼女は、陸でもんどりうっていた魚が川へ放流されたかのような解放感に満ちていた。爪や髪をつやつやに保ち、ブランドコスメの感想やそれと同じ熱量で彼とのデートや情事について話す様子は十代の生き生きとしていた頃を思い出させ、結婚以来家庭に引きこもり浮気疑惑と育児に追われぼろぼろになっていた彼女が回復したようで、傍で見ていた私はどこかほっとしてさえいたが、ここにきて不倫相手との関係がうまくいかなくなりはけ口をなくした彼女は、最近出会い系アプリを利用し始め、それで何とかバランスを取っていると話した。
「寂しい時インスタント的に啜る恋愛だっていいと思うけどさ、会う人は慎重に選びなね」
「苦しいんだよ。家にいると死にそう。旦那がうざい」
 彼女の言葉は、自分を追い詰める者への呪詛の言葉のように感じられる。
「相変わらず離婚は考えてないの?」
「子供いるし、子供は旦那好きだし、それに今更働けない」
 何度も聞いてきた言葉だ。ため息をつきつつワイングラスからぐっと白ワインを飲み込むと、窓際の席に座る男が小さく手を振っているのに気づく。さっきトイレ前で、後で二:二で飲まない? と誘ってきて無理と答えたのに、行っていい? とジェスチャーで聞く男に、レイナに見つからないよう睨みつけて首を振る。
「彼に会いたい」
 彼とは不倫相手のことだ。もう何年もダブル不倫を続けてきた彼が突然連絡無精になった理由は、奥さんに勘付かれたか、奥さんとの関係が改善したか、レイナが重くなったか、他に不倫相手を見つけたか、のどれかだろう。
「向こうが引いてるなら今は自分から連絡しない方がいいと思うよ」
 分かってるけどさあとレイナはぐずるように何だかというカクテルを飲む。昔からお酒というとシャンパンやカクテルしか飲まない彼女は十代の頃からあまり変わっていない。
 思えば、彼女は十代の頃から専業主婦になりたいと言っていた。当時の私にはなぜ彼女がそんなことを言うのかさっぱり分からなかったけれど、今の彼女を見ていると、彼女がその道を選んだことの意味が少し分かったような気がする。働かないことで守ってきた未成熟の成熟が、強烈に感じられた。働かない女性にも当然ながらプライドがあるのだという事実に、改めて思い至る。そして自分が女性という言葉を使う時、どこかで働いている女性という前提を含んでいることに気づかされる。
 仕事という要素のない人生でアイデンティティを構成するとしたら、子供や夫からの愛や、美味しいご飯を作れて家を綺麗に保てる、よくできる妻、母という定型化した肩書きといった所にそれを見出すしかなく、夫との関係が破綻してしまった彼女が別の人に穴埋めを求めるのは当然の流れと言える。同じ専業主婦でも、夫との関係は破綻していて子供にも疎ましがられてるけどそれでも気にせず家事やって生きていくという割り切った人もいるけれど、女を捨てられないと言い切るその迷いのなさにのみ、私は彼女らしさを見ることができたような気がしていた。
「飲んだ後の帰り道は連絡しちゃいけない人に連絡しちゃう時間帯だから気をつけな」
 そうなんだよね、そうなんだよなあ、とレイナは繰り返して本当に悲しそうな、そして悲しい自分に苛立っているような表情でグラスを持ち上げると最後の一口を飲み干した。

 

 終電の二本か三本前の電車はそれなりに混んでいて、何となくすっきりしない気分のまままたツイッターを見ながら揺られていると、すみません、この電車は池袋に停まりますか? と背の高い外国人の男の人が声をかけてきた。終電が近くそこまで行くか分からなかったため、乗り換えアプリを開いて調べてから「大丈夫です。池袋まで行きますよ」と言うとホッとした表情でありがとうと彼は答えた。こういう、人が聞きたいことに答えるという一対一の往復のコミュニケーションを取っていると安心する。ピンボールのようにあちこちにぶつかりながら目的地に向かっていくような複雑なコミュニケーションや駆け引きは苦手だ。娘に勧められてインストールしたオンラインゲームのクラッシュ・ロワイヤルでも、相手のデッキ内容やエリクサーコストを把握して戦略的に攻めるようなやり方はできず、ただただ自分の手札の中から最善の手を打つ以外の戦い方はできない。だからトロフィーは二千前後で伸びどまり、何度デッキを構成し直してもアリーナ7と6を行きつ戻りつしている。自分の戦い方の限界値を知った気がして、無力感に駆られ最近あまりやる気になれない。
 駅からの帰り道、前に一度だけ寄ったことのあるバーが目に入ってあまりの寒さに思わず足が向く。客は私一人だけで、カウンターに座ると「あ、前にも来てくれましたよね」とバーテンダーが声をかけた。
「すごいですね。来たのもう三ヶ月くらい前ですよ」
 と一応言うが、頭では口にピアスが開いているから覚えられやすいのだと分かっている。ジントニックを頼むと、最近近くにできたラーメン屋の話を彼が振ってきた。
「あああそこ、行きましたよ。劣化版二郎でした」
「ですよね? あそこ絶対すぐ潰れますよ」
 そう彼は笑いながら答えた。
「この辺いいラーメン屋あります? こってり好きなんですけど」
「この辺は駄目ですね。ラーメン不毛地帯です」
「あ、でも天一美味しいじゃないですか」
「えー、天一でいい系ですか?」
 え、天一でいいじゃん! と言うと、昔飲み帰りに天一行ってラーメン出てきた瞬間にゲロ吐いちゃったことがあって、そしたらちょうど丼ぶりがなみなみになったんですよ、と彼は最低な話をして笑った。これから天一行くたびその話思い出すやつじゃないですかそれ。と私も笑った。ラーメン屋が如何に儲かるかという話や面倒な客エピソードを聞きながら、その下世話さが何となく居心地良くて、結局四杯くらい飲んだあとお客さんが増えてきた店を後にした。
 手に切り傷があるんじゃないかと両手を二度見するくらい寒かった。イヤホンから流れる音楽がふっと薄れ、ポコンとLINEのバカみたいな通知音がして、震える手でスマホをアンロックするとレイナから「結局帰り道でLINEしちゃった」と入っていた。そっか、と呟いて私はスマホをポケットに入れる。大人になっても仕事をしても親になってもこんなに寂しいなんて思わなかった。こんなにも癒されたくて、こんなにも誰かを求めてしまうなんて思わなかった。
 すぐにもう一度ポコンと音が鳴ったけれど、レイナからの連投を読む覚悟がなかなかできず、ポケットに手を入れたまま見渡す限り誰もいない道を、イヤホンから流れる曲に合わせていつもより少し大きな声で鼻歌を歌いながら家に向かって歩き続けた。

毎月第1木曜日更新

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著者 金原ひとみプロフィール

1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『クラウドガール』等がある。現在『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」を連載中。