#61

銀色のスプーン

 このままでは身体に毒素が溜まって辛いばかりだ。口の中や顎の下の傷口も痛々しいが、それより何より、彼女がいま苦しい状態にあるのを思うと耐えられない。

 すぐに行きます、と私は言った。そばで聞いていた背の君がさっと立ち上がり、〈もみじ〉の通院に使っているエコバッグを用意する。

「気を付けていらして下さい。私もこれから向かって、準備してお待ちしていますから」

 院長先生の声が、泣きたくなるくらい力強く聞こえた。

 町の条例で、こんなに遅く営業している店はない。コンビニでさえ朝7時に開き、夜11時に閉まる。少し、霧が出ているようだ。浅間山の裾野、林に囲まれた真っ暗な道を走ってゆく。

 と、ゆるやかな下り坂のその先に、動物病院の明かりがふんわり灯っているのが見えた。院長先生がもう来て下さっているのだ。

「もみちゃん、がんばれ。もう大丈夫だよ」

 車を停めた背の君が、助手席の私の膝からもみじの入ったエコバッグをいったん持ちあげ、降り立つのを待って再び渡してくれた。

 少し前までは、エコバッグに入れた彼女を運ぶのは背の君の役割だった。

 通院のたび、まずは私が、家の酸素室やベッドからもみじを抱き上げる。エコバッグにはあらかじめ、ひときわもこもこの上着(ユニクロのフラッフィーフリース)がセットしてあって、そこにもみじを下ろすと、フリースでくるんでチャックを閉め、袖と袖を背中で結ぶ。そのエコバッグを、背の君がぶらさげて外の車まで運ぶ。

 助手席に乗り込んだ私の膝にバッグに入ったもみじをひょいと乗せた彼は、15分くらいかけて病院に着くと再びバッグを提げ、受付で私が財布から診察券を取り出している間に待合室のソファに腰を下ろし、隣にもみじのバッグを置き、時間が来て呼ばれたら、また診察室へと運ぶ……。

 昨年の6月から続けてきた50回以上もの通院の間に、いつのまにかそういう役割分担が出来あがっていた。

 けれどここ最近、つまり彼が2週間にわたって大阪へ帰っていたその少し前あたりから、もみじを抱いて運ぶのは私になった。彼女の好きな缶詰を開けてやるのもそうだ。これまでなら真夜中でも率先して起き上がっていた背の君が、黙って自分は寝ているふりをするものだから、もみじの望みを叶えるのは自然と私の役目になった。

 おかげで、と言っていいと思う。背の君不在の半月ほどの間、そして手術の3日前に彼が戻って来てから後も、私ともみじの間に流れる時間、その1分1秒は、これまでの17年と約10ヶ月をふり返っても、最も濃密で親密なものとなっていた。

 彼が大阪の実家から持ち帰ってくれた乳幼児用の銀色のスプーン──50年とちょっと前にはまず私が使い、その5年後には従弟(いとこ)の彼が引き継いで使った曰く付きのスプーンで、少しずつすくっては差しだすフードを、もみじがぺちょぺちょと食べる。見守っていると、なんと言えばいいのだろう、私たち3にんの間を、しっかりとした太い糸がつないでゆくような、それとも、3にん揃ってとてつもなく大きな流れの中に抱き取られてゆくような、そんな気がしてならなかった。

 まだだよ、もみちゃん。あのスプーン、まだ、たったの3日しか使ってないよ。あんたが食べてくれるのが嬉しくて、かーちゃん先週も缶詰いっぱい買ったんだから。ここを乗り切ったら、またきっと食べられるようになるから。

 背の君が引き開けてくれるドアから入ると、すぐに院長先生が診察室から出てみえて、こちらへどうぞ、と言ってくれた。

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著者 村山由佳プロフィール

村山由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ、軽井沢在住。立教大学卒業。1993年『天使の卵―エンジェルス・エッグ―』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。2009年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。エッセイに『晴れ、ときどき猫背』など、近著に『嘘 Love Lies』『風は西から』『ミルク・アンド・ハニー』などがある。

猫プロフィール

  • もみじ(♀17歳 三毛)

    男を見る目のない作家のかーちゃんに付き添ってあちこちを転々とし、現在は長野県軽井沢町在住。半世紀も猫を飼ってきた飼い主をして「こんなに猫らしい猫を見たことがない」と言わしめる、村山家のお局様。

  • 銀次(♂10歳 メインクーン)

    体重8キロ、大柄だが気は優しく、犬にも人間にも動じない、村山家のお客様おもてなし担当。中身はたぶん、おばさん。

  • サスケ(♂3歳 黒のハチワレ)

    妹の〈楓〉とともに村山家の一員となった。極度のビビリの半面、とんでもない甘えん坊。鳴き声は常にひらがなで、「わあ」。

  • 楓(♀3歳 サビ色の三毛)

    サスケ兄ちゃんの鈍くささを嘲笑うかのように、わざと危ないところへ上ってみせるおてんば娘。銀次おじさまのことが大っ好き。短い尻尾がコンプレックス。

  • 青磁(♂9歳 ラグドール)

    真っ青な瞳の美しい貴公子だが、性格はやや屈折している。飼い主が亡くなったため、温かな南房総から軽井沢へと連れてこられた。ただ今、他の猫たちとの共存方法を模索中。怪鳥のように「めけぇっ」と鳴く。

本文写真・猫近影
村山由佳
著者近影 山口真由子