#65

どうしてそんなに優しいの

 翌朝9時、私は後ろ髪を引かれる思いで〈もみじ〉を残し、かかりつけの歯科医院へと出かけた。数日前に、奥歯がぐらついて痛むんですと電話で訴えたら、可能な限り最短で時間を空けて下さったのだ。

 技術の高さはもちろんのこと、痛みを最小限に抑える治療や丁寧な説明で患者さんに人気があり、予約がなかなか取れないのだけれど、若先生にはいつも何かと無理を聞いてもらっている。『おいしいコーヒーのいれ方』以来の読者ですから、と言っては下さるものの、だからといって甘え過ぎて、せっかくの予約を無駄にしては申し訳ない。

 けれど、待合室で順番を待っているとスタッフの女性が来て言った。

「すみません、前の患者さんに時間がかかってしまって、もう少しお待ち頂くことになるのですが大丈夫ですか?」

 背中を(あぶ)られるような思いで、壁の時計を見上げる。家を出てからすでに30分。このあとしばらく待って、それから治療を受けてとなると、さらに1時間はかかるだろう。たまらなくなり、ごめんなさい、と私は言った。

「ご無理をお願いして予約を入れて頂いたのに申し訳ないんですけど……じつは、うちの猫が今、危なくて」

 言いながら、自分の言葉に今さらのようにショックを受ける。──危なくて。

 できることなら別の日にして頂けないでしょうか、とお願いしたその時、奥から若先生が顔を覗かせ、受付のところまで来て下さった。

「大丈夫です、村山さん。ご事情は僕、ツイッターで見て存じあげてますから。どうぞ今は、猫ちゃんのそばについていてあげて下さい」

 胸が詰まった。ありがとうございます、すみません、と頭を下げたとたんに込み上げてくるものがあって、目の潤むのをこらえようとすると、かわりに声が震えた。

 みんな、優しい。どうしてそんなに優しいのか。

 それこそツイッター上でも、大勢のフォロワーさんがもみじのことを心配して下さる。たかが猫一匹、なんて揶揄(やゆ)する人など一人もいない。顔の見えないネットでのこと、心ないコメントが寄せられても不思議はないのに、そんなものはただのひとつも見当たらなくて、逆に、その猫一匹のことでこんなに情けなく動揺している私を励まし、あたたかくて(じつ)のある言葉をかけて下さる。会ったこともないもみじを気遣い、そのひと自身がかつて(うしな)った大切な誰かに重ねながら思いやって下さる。

 もみじの病気がわかった去年の6月以来、寄せられる沢山の想いにどれほど勇気づけられてきたことだろう。自分はまわりに支えてもらって生きているのだ、ということをこれほど強く実感したのは、半世紀にわたる来し方をふり返っても初めてのことだったかもしれない。

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著者 村山由佳プロフィール

村山由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ、軽井沢在住。立教大学卒業。1993年『天使の卵―エンジェルス・エッグ―』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。2009年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。その他の小説に『放蕩記』『ワンダフル・ワールド』『La Vie en Rose ラヴィアンローズ』「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズなど、エッセイに『晴れ、ときどき猫背』『楽園のしっぽ』などがある。

猫プロフィール

  • もみじ(♀17歳 三毛)

    男を見る目のない作家のかーちゃんに付き添ってあちこちを転々とし、現在は長野県軽井沢町在住。半世紀も猫を飼ってきた飼い主をして「こんなに猫らしい猫を見たことがない」と言わしめる、村山家のお局様。

  • 銀次(♂10歳 メインクーン)

    体重8キロ、大柄だが気は優しく、犬にも人間にも動じない、村山家のお客様おもてなし担当。中身はたぶん、おばさん。

  • サスケ(♂3歳 黒のハチワレ)

    妹の〈楓〉とともに村山家の一員となった。極度のビビリの半面、とんでもない甘えん坊。鳴き声は常にひらがなで、「わあ」。

  • 楓(♀3歳 サビ色の三毛)

    サスケ兄ちゃんの鈍くささを嘲笑うかのように、わざと危ないところへ上ってみせるおてんば娘。銀次おじさまのことが大っ好き。短い尻尾がコンプレックス。

  • 青磁(♂9歳 ラグドール)

    真っ青な瞳の美しい貴公子だが、性格はやや屈折している。飼い主が亡くなったため、温かな南房総から軽井沢へと連れてこられた。ただ今、他の猫たちとの共存方法を模索中。怪鳥のように「めけぇっ」と鳴く。

本文写真・猫近影
村山由佳
著者近影 山口真由子