#81

早く着替えて、戻っておいで

 こうして机に向かって書きものをする合間に、時折、外へ出て庭仕事に励む。私にとってはいちばんの息抜きであり気分転換だ。しばしば〈もみじ〉のために花を摘んだりもする。

 草を引き、枯れ枝を落とし、肥料をやり、土を寄せる。巻いてあった長いホースをのばして水やりを始めると、しばしば隣の家の猫たちが覗きにやってくる。

 キジトラの兄弟、〈アシュリー〉と〈スモーキー〉。灰も煙も私には区別がつかないのだけれど、どうやら比較的大胆なのがアシュリーのほうらしい。シャワーヘッドを握って水を出すたび、びくん、とホースがはねる。それが面白いのか、彼らは興味津々で前肢をのばす。

 今はもういなくなってしまった前の兄妹、〈ジンジャー〉と〈タビー〉が遊びに来ていた頃が昨日のことのように思い出される。彼らもまた、ホースにじゃれるのが大好きだった。

 いなくなっても、ちゃんといるのだ。憶えている限り、消えたりはしない。ずっと、いる。そう思うと、目の前で生きて動いている若い2匹がなおのこと愛おしい。

 けれどまた、彼らとは別に、私の視界の端をときどき見知らぬ猫がかすめて通ってゆく。大きさも模様も定かではない。はっと顔を上げ、そちらを見るともう居なくなっているから、まともに見たことはまだ一度もない。

 でもそんな時、私は、思わず微笑しながらまた手もとに目を戻し、作業を続ける。

 いることはわかっているのだ。正面から見ようとすると見えないのは、ふだんから、〈そこに存在するものならこの目に見えないはずがない〉という思い込みがあるせいなのだろう。

 そこに在るのに私には見えていないものが、じつはこの世には沢山あるのかもしれない。ちょうど、もみじが──というか、(こん)(じよう)では〈もみじ〉という名を与えられた或る猫の魂が、ずっと昔からくり返し私のもとへ来てくれていたことにもつい最近まで気づかなかったように。

 そういえば、彼女が逝ってしまった翌日、動物病院の皆さんから届いたお花の御礼を、と思い、院長先生にメールを送った時のことだ。

 先生に診て頂けて、もみじは幸せ者でした。私たちはもっと幸せでした。先生のこと、心から尊敬しています。そう(したた)めたメールの最後に、「もみじ&由佳」と書いて送信すると、やがて返事が届いた。

 もみじちゃんのために本当は何がいちばん良かったんだろうと考えていたところへ、今メールを頂いて涙しています、と書かれていた。なんでも、部屋の扉が少し開いていて、おかしいな、猫が入らないようにしっかり閉めたはず、と不思議に思った拍子に、私からのメールに気づいたそうだ。「もみじちゃんがわざわざ届けに来てくれたんですね」とも書いて下さっていた。

 どうやらもみじは、時空を超えてどこへでも出没できる身体を手に入れたらしい。口の中の邪魔な腫瘤(しゆりゆう)もないし、もうどこも苦しくない。私が夢の中で会った彼女そのままに、ぴっちぴちの魂のまま跳ね回っているのだ。そりゃあ楽しかろう。

 とはいえ生きている間だって、若いうちは1度遊びに出かけたら何日も帰ってこないことがしょっちゅうあった。こちらがどれだけ気を揉んでも姿さえ見せずにさんざんほっつき歩き、でもそのうち彼女なりに気が済むと、必ずひょっこり帰ってきた。自分の身体より大きな獲物をひっさげ、まるで今朝も会ったみたいな顔をして、ちゃんと私のところへ戻ってきたのだ。

 外へ出て、光に満ちた庭を見わたす。春夏はいのちでむせ返り、秋冬は深閑と静まり返る小さな庭。限りある視界の両端、輪郭がぼやけているあたりへ意識を凝らす。そうして、呼びかける。

 もみじ、もみじ、愛してる。

 早く着替えてまた戻っておいで。

 そうしたら、私にはきっとわかる。

 あんただってことが、きっとわかる。

(了)

※本連載をまとめた単行本は、ホーム社より今秋刊行予定です。

※2018年8月より、本連載の特別編が連載開始予定です。

毎週 火・金曜更新(の予定)

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著者 村山由佳プロフィール

村山由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ、軽井沢在住。立教大学卒業。1993年『天使の卵―エンジェルス・エッグ―』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。2009年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。エッセイに『晴れ、ときどき猫背』など、近著に『嘘 Love Lies』『風は西から』『ミルク・アンド・ハニー』などがある。

猫プロフィール

  • もみじ(♀17歳 三毛)

    男を見る目のない作家のかーちゃんに付き添ってあちこちを転々とし、現在は長野県軽井沢町在住。半世紀も猫を飼ってきた飼い主をして「こんなに猫らしい猫を見たことがない」と言わしめる、村山家のお局様。

  • 銀次(♂10歳 メインクーン)

    体重8キロ、大柄だが気は優しく、犬にも人間にも動じない、村山家のお客様おもてなし担当。中身はたぶん、おばさん。

  • サスケ(♂3歳 黒のハチワレ)

    妹の〈楓〉とともに村山家の一員となった。極度のビビリの半面、とんでもない甘えん坊。鳴き声は常にひらがなで、「わあ」。

  • 楓(♀3歳 サビ色の三毛)

    サスケ兄ちゃんの鈍くささを嘲笑うかのように、わざと危ないところへ上ってみせるおてんば娘。銀次おじさまのことが大っ好き。短い尻尾がコンプレックス。

  • 青磁(♂9歳 ラグドール)

    真っ青な瞳の美しい貴公子だが、性格はやや屈折している。飼い主が亡くなったため、温かな南房総から軽井沢へと連れてこられた。ただ今、他の猫たちとの共存方法を模索中。怪鳥のように「めけぇっ」と鳴く。

本文写真・猫近影
村山由佳
著者近影 山口真由子