12 ダリと女神ガラの秘密 (あるいは固くなったフランスパンについての考察)


「ぼくは天才になる。世界はぼくをたたえるだろう」
スペインにあるフランスとの国境に近い小さな田舎街フィゲラスで生まれた16歳のサルバドール・ダリ(1904‐89)は、手帳にこう書き留めた(『ダリ シュルレアリスムを超えて』より)。「僕は天才だ」ではなく「天才になる」というのが重要だ。彼は、天才として生まれたのではなく、自らの意志で「天才」になったのだ。その実現には、「女神」の存在が必要だった。
 
ダリは17歳の時、最愛の母をがんで亡くしたことをバネにして画家となり、29歳でニューヨークでの初個展。32歳でアメリカの雑誌「TIME」の表紙を飾り、37歳でニューヨーク近代美術館で大回顧展。38歳の時には早くも自伝『サルバドール・ダリの秘められた生涯』を出版。さらに、あの有名なチュッパチャプス(バルセロナ生まれのキャンディ)のロゴもデザインした。メディア露出を作品の一部と考え、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画「白い恐怖」(1945年)のセットまで手がけた。
ダリは、パフォーマー、デザイナーとしても商業的に成功し「ドルの亡者」と揶揄(やゆ)されたたが、アートとビジネスを結びつけたのも今から考えれば先進的。アンディ・ウォーホルと親しくして、彼と同じように芸術家自身の活動を作品と見立てたのも非常に現代的だ。その成功の陰には「天才」をプロデュースした母親代わりの妻ガラという存在があった。2人は「ダリ&ガラ」という偉大な芸術家ユニットを自ら演じていた。音楽でいうと‪カーペンターズ‬、ドリカム、‪ハンバートハンバート‬のような男女ユニットみたいな感じだ。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬


ダリにとって人生で最も重要な出会いは、間違いなくガラだ。10歳年上で、並んでいると母親のようにも見える。実際にガラは、ダリのことを「可愛い坊や」と呼んでいたらしい。やがてダリは、ガラを自分の分身だと考えるようになっていった。初期の作品には「ガラとサルバドール・ダリ」と署名していたこともある。
ガラはインスピレーションを与えてくれるミューズであり、献身的な母であり、仕事の広報役でもあった。敏腕マネージャーとして、アメリカの画商に積極的に作品を売り込んでくれ、トレードマークの(ひげ)も、奇行のパフォーマンスも彼女の演出だった。金銭もすべて管理し、編集者としてダリの自伝を編集しベストセラーにしたこともある。ガラは、タロットカードによる占いを信じ、ダリの未来を決めていたとも言われている。いずれにせよビジネス的なセンスがあった彼女のおかげで「天才ダリ」は生まれたのだ。
つまり、ダリにとってガラとは自分を支配し、夢を叶えてくれる存在であり、妻というよりは超越的存在だったのだろう。 ダリは「次は何をしたらいい?」と聞くだけでよかったのだ。


ガラは、ロシアのタタールスタン共和国に生まれた。父親は弁護士で裕福なユダヤ人。本名はエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワ。モスクワではありきたりな名前だったため、いつしか自らの名前を「ガラ(gala=フランス語で祝祭、社交界のお祭りを意味する言葉)」と名乗るようになった。
いつからガラと名乗ったのかわからないが、もしかするとダリと一緒に活動するようになってから「ガラ」がいいと思ったのかもしれない。「ダリとガラ」、この濁音の響きが完璧なユニット名は、偶然の産物ではなくセルフプロデュースされているような印象を受ける。
 
ガラは17歳の時、肺結核の治療を受けるため、スイスにある療養所に入院した。そこで、あるフランス人の青年と出会い、恋に落ちた。その青年はガラに励まされ「ポール・エリュアール」の名で詩集を出版。その後、シュルレアリスム運動を代表する作家となった。ガラは、10代の頃から無名の芸術家を育てる天才だったのだ。あるいは、エリュアールを有名にしたことで、芸術家のプロデュースに興味を持ったのかもしれない。
その後、ガラはロシアからパリへ移住し、エリュアールと結婚、娘をひとり産んだが、ダリと出会い、2人は結ばれた。ダリは、ガラに出会って一晩ですっかり人間が変わってしまった、と友人のルイス・ブニュエルが証言している。ダリは、ガラの言ったことを、ただ繰り返していたらしく、相当衝撃的な出会いだったようだ。


ダリは、妻のガラに人生を捧げていた。しかし、ガラは若い芸術家が大好きで、恋人がつねにたくさんいた。オープンマリッジ(両者の合意のもとに婚外交渉を認める開かれた結婚のこと)というスタイルをとり、ダリと一緒に暮らしていても、ガラは別の恋人を自宅に招いたりしたそうだ。ダリは、愛妻ガラに11世紀に建てられた古いお城「ガラ=ダリ城(Castillo Gala Dali)」をプレゼントしたが、彼女はここで40歳以上年下の若い芸術家たちと暮らした。ガラは「絶え間ない爆発のような人生」を送るのがモットーだったので、若い俳優にのめり込んだ時は、100万ドルの屋敷を買い与え、現金を言われるままに渡していたという。それでもダリが、ガラに会いにいく時は「招待状」がなければお城に入れなかった。
 
気が強く奔放でヒステリック、一般的な美人でもないガラが、なぜそれほどまでに多くの芸術家たちに愛されたのだろうか? 写真家マン・レイのモデルであり、詩人アンドレ・ブルトン、画家ジョルジュ・デ・キリコともつき合っていた。ガラは、最初に詩人のエリュアールと結婚した直後も、ドイツ人シュルレアリスト、画家のマックス・エルンストと3人で一緒に住んでいた。なんとも奇妙すぎる恋愛関係だ(エリュアールは、結婚している妻のガラが知らない男性2人と寝ているところを目撃したこともあるという)。それでもダリにとってガラは、生涯ミューズであることに変わりはなく、愛し続けた。


実は、ダリは女性恐怖症だったため、ガラと出会うまで女性経験がなかったと言われている。「私はいまだかつて一度も、愛の行為をしたことがなかった。それは私の体力には不釣合いのように思えたし、(略)私には向いていない行為だった」(『ダリ シュルレアリスムを超えて』より)とダリ自身が語っている。
ダリは、父親が子どもの頃に見せた梅毒の写真によって性的コンプレックスを感じていた。生涯を通じて固いものに憧れ、柔らかいものへの恐怖心をモチーフとして描き続けた。特に、柔らかくて、次第に固くなるフランスパンには、特別な関心を抱いており、たびたび重要な場面で登場する。フランスパンを頭に載せたパフォーマンスも行っているが、これはまさにダリの性的不能に対する不安が表現されている。ダリの作品はすべて自らの恐怖心と戦い続けた「心の風景画」だったのではないだろうか(ちなみにダリには、アマンダ・リアという妻公認の恋人がいたことも知られているが、元男性という噂もあった)。
 
何はともあれ、女神ガラのおかげでダリの才能は、華々しく開花した。彼が絵を描いている横で、ガラが詩集や原子物理学の本などを母親のように読み聞かせをしたことも大きかった。1982年にガラが死去すると、自分の人生の(かじ)を失った、と激しく落ち込み、翌年には絵画の制作をやめた。そして、ダリは1989年に死去。遺体は、生まれ故郷フィゲラスのダリ美術館に埋葬された。
自分の内面をパラノイア的な作風で描くには、やはり何かしらのルールが必要だったのだろう。混乱を組織化し、支配してくれる絶対神が、ダリにとってはどうしても不可欠だったのだ。そう考えるとガラは素晴らしい女神だったに違いない。「ぼくは天才になる。世界はぼくをたたえるだろう」と書いた少年の夢を100パーセント実現してくれたのだから。

 
 
 

【参考文献】
ジャン=ルイ・ガイユマン著『ダリ シュルレアリスムを超えて』伊藤俊治監修、遠藤ゆかり訳(創元社)
キャサリン・イングラム文、アンドリュー・レイ絵『僕はダリ』岩崎亜矢監訳、小俣鐘子訳(パイ インターナショナル)
 
【展覧会情報】
「四次元を探しに ダリから現代へ」
会場:諸橋近代美術館(福島県耶麻郡)
2019年7月13日(土)~11月24日(日)

毎月第2・4木曜日更新

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著者 ナカムラクニオプロフィール

ナカムラクニオ
1971年東京生まれ。東京・荻窪のブックカフェ「6次元」店主、金継ぎ師、映像ディレクター、山形ビエンナーレキュレーター。著書に『人が集まる「つなぎ場」のつくり方――都市型茶室「6次元」の発想とは』『さんぽで感じる村上春樹』『パラレルキャリア』『金継ぎ手帖』『猫思考』『村上春樹語辞典』など。