06 ゴーギャン流「楽園」の作り方


「私の出生の背景は、インディアンであり、インカである」
 (「芸術新潮」2009年7月号 新潮社より)
 
ゴーギャンが、ゴッホの弟テオに出した手紙にこんな一文がある。
あまり知られていないことだが、ポール・ゴーギャン(1848-1903)は、ペルーのスペイン系貴族の血を引いていた。そして、死ぬまで、理性と野性の狭間(はざま)で揺れる人生を送った。近代的な文明が作り上げた人工の都市を離れ、美しい地上の楽園で「豊かさ」を探し続けた。ゴーギャンが一生かかって作りたかった作品とは、絵画ではなく「本当の楽園」だったのだ。
 
ゴーギャンの人生は、絵に描いたように波瀾(はらん)万丈だ。パリで生まれて、1歳でパリを離れてペルーに移住した。ゴーギャンの祖母は、社会主義の活動家で、ペルー人の父を持つフローラ・トリスタンという人物。父クローヴィス・ゴーギャンは共和主義者の新聞記者だったため、ルイ=ナポレオン政権下、政府の迫害から逃れてペルーのリマに移住しようとしたのだ。しかし、悲しいことに父がペルーに向かう途中に急死。そのため、ゴーギャンは母と共に親戚に預けられた。この親戚というのが当時のペルー大統領ホセ・ルフィーノ・エチュニケ。いきなり豊かな幼少時代を過ごすことになった。南米ペルーという熱帯の楽園での幸せな暮らし。この生い立ちこそが、ゴーギャンを楽園の画家にした、と言っても過言ではない。そして、母が集めたインカの陶芸品で遊びながら、少年ゴーギャンはすくすくと育った。


6歳の時、ゴーギャンは家族と共にフランスに戻る。そして、17歳から3年間、商船の見習い船員となり世界中の海を巡った。この経験がなかったら、ゴーギャンは、あれほどまでに繰り返しタヒチとフランスを行ったり来たりするような人生を選ばなかっただろう。フランスで生まれ、西洋人の顔をしながらも、160センチほどの小柄でペルー人のような体型のゴーギャン。青い眼で見つめた心の原風景はいつだってパリではなく「南の楽園」だったのだ。
ゴーギャンは23歳でパリに戻ると、亡くなった母の恋人の紹介によって、証券取引所で働くようになる。すると、メキメキと頭角を現し、あっという間に株式の仲買人として成功してしまう。そして、25歳の時、デンマーク人のメットと結婚。5人の子どもにも恵まれた。若くして裕福になったゴーギャンは、印象派の絵画を買い集めた。記録によると、ゴーギャンが所有していた絵画は、ドーミエ、ブーダン、マネ、ピサロ、ドガ、ルノワール、シスレーなど。特にセザンヌを大切にしていたらしい。これは、ゴーギャンの絵画のルーツそのものだ。印象派の絵画収集こそが彼にとって美術の勉強だった。そして、画家のピサロと知り合いになり、彼自身も本格的に絵を描きはじめることになった。……と、ここまでの人生は順風満帆。しかし、31歳の時、パリの株式市場が大暴落、収入が激減したのだ。そこで、何を思ったのか画家で食べていこうと決意する。
まずは、妻が生まれたデンマークのコペンハーゲンで防水シートのセールスマンをしながら絵描きを目指したが、仕事は大失敗。もはや、ゴーギャンは、画家として一発当てて人生を大逆転させるしかないと思い詰めた。37歳になった彼は、妻子をコペンハーゲンに残し、ひとりでパリに戻り、ポスター貼りのアルバイトなどで食いつなぐ日々を送る。もはや人生の崖っぷちだった。38歳になったゴーギャンは、ひとりパナマへ行き、運河掘りの仕事に就いた。しかし、パナマから移ったマルティニック島で熱病にかかり再びパリに戻って来てしまう。


その頃、ゴーギャンは、お金がまったくなかったので、生活費が安いブルターニュ地方のポン=タヴァンの画家コミュニティで暮らしはじめた。そして、画家として有名になることを夢見て、画業に専念した。それでも、デンマークの妻とは離婚はせず手紙だけはまめに書いた。
追いつめられたゴーギャンは、ここで底力を発揮。若い画学生たちに影響されながらも独自のスタイルを生み出していく。それは、南米インカの壷のような黒い縁取りとカラフルな色彩の絵画だった。セザンヌの平面性と原始美術の精神性、そして日本からやって来た浮世絵の構図をミックスして、新しい作風を確立したのだ。それは、まさに彼自身のルーツを見つめ直す作業でもあった。ゴーギャンは、幼少期に母が集めていたインカの壷のような陶芸作品もたくさん作った。
この作風は、輪郭線を金属で仕切り釉薬(ゆうやく)を流し込む七宝焼(しっぽうやき)(クロワゾネ)になぞらえて「クロワゾニズム」と呼ばれた。そしてゴーギャンは、ヘブライ語で「預言者」 を意味する「ナビ派」というグループのリーダー的存在となった。特徴は「平面性」「装飾性」、そして「神秘性」。これは、セザンヌには「中国の切り絵」と揶揄(やゆ)されたが、ゴーギャンは自分のルーツともいえるインカと西洋美術を織り交ぜた新しい画風を貫き通すことで、画家としての方向性をようやく見つけたのだ。
 
40歳になったゴーギャンは南フランスのアルルに移り、ゴッホと2カ月の共同生活を送りながら、制作に励んだ。そして、絵を売ったお金で念願のタヒチに向かった。実はこの頃、パリには妊娠中の恋人ジュリエットがいたが、彼女から逃げるように旅立った。そして、タヒチの首都パペーテの郊外にアトリエを構える。 ゴーギャンは、現地で13歳くらいのテハーマナと同棲し、楽園での穏やかな暮らしを送ることとなった。実際に、この時期に描かれたポリネシア風のモチーフを取り入れたタヒチの絵が最も評価の高い作品となっている。


そして、パリに一時帰国して個展を開催。しかし、タヒチで描いた60点ほどの作品が評価されることはなかった。当時、デンマークには妻と子ども5人(離婚しなかった)、タヒチには妊娠し流産したテハーマナ、パリには恋人ジュリエットと子どもがいたにもかかわらず、ゴーギャンは、スリランカ出身のアンナという女性と暮らしはじめる。ある時、アンナのことを道端でからかわれたことがきっかけで知らない男たちと大げんか。足を骨折してしまう。さらに、その恋人アンナにも財産を持ち逃げされるなどの事件が続き、ゴーギャンはすっかりパリに失望した。
結局47歳の時、タヒチに舞い戻る。しかし、伯父さんの遺産が大量に入ったことで、2回目のタヒチは、本格的な移住となった。そして、また新しい恋人を見つけ、13歳だったパウラという女性と同棲。子どもも生まれた。パリの画商、批評家、パトロンたちとも手紙のやり取りをしながら、画家としての成功を夢見た。
この頃、ゴーギャンは、デンマークに残した長女、アリーヌが肺炎で亡くなったことにショックを受け、《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》という大作を描き上げた。
絵の完成後、49歳になったゴーギャンはヒ素を飲んで自殺しようとした。だが、死ねなかった。
信じられないことに、ここでまたゴーギャンはまた現地の家族パウラと子どもを捨て、さらに原始的な暮らしを求め、ヒヴァ・オア島に引っ越しをしてしまう。そして、2階建ての建物を建て、「メゾン・デュ・ジュイール(快楽の館)」と名づけ暮らしはじめたのだ。


ゴーギャンは、タヒチに旅立つ前年、デンマークの妻への手紙にこんなことを書いていた。
 
「私のなかにはふたつの本性がある。つまり、インディアンと感じやすい人間がいる。感じやすい人間は姿を消した。そのおかげでインディアンがまっすぐにしっかりと歩きはじめている」
 (「芸術新潮」2009年7月号 新潮社より)
 
最晩年、ゴーギャンはようやく西洋の理性から逃れ野性を取り戻した、と感じていたらしい。
そして、54歳のある日、ひっそりと亡くなった。彼の遺志によって、墓にはゴーギャン自作のブロンズ像「オヴィリ」が置かれた。オヴィリとは、タヒチ語で「野蛮人」を意味する言葉だ。両手で動物を絞め殺し、足でも獣を踏みつけている。生涯をかけて野性を求め続けたゴーギャンの自画像のようだ。この彫刻作品は、いまでもゴーギャンの足跡を追って、ヒヴァ・オア島を訪れる人々を温かく迎えてくれている。
 
ちなみに、僕もゴーギャンを訪ねて、すべての住居を訪ね、遺族にも会ったことがある。すると、興味深い事実が明らかになった。パペーテに住む最初の孫は、なんと今、ゴーギャンの複製画のコレクターになっていた。自宅に大きな展示室をもうけ、非公開の個人美術館を作っていた。「原画は一枚も持っていないけど、おじいさんの絵がとても好きだ」と言っていた。顔もゴーギャンそっくりで、家族全員がタヒチの自然と共に幸せに暮らしていた。
もうひとりのヒヴァ・オア島の孫は警察官になっていた。こちらも顔がゴーギャンそっくりだった。裸で馬を乗りまわし、まるでゴーギャンの生まれ変わりのようだった。山で採れる「パンの実」を焼いてご馳走してくれ、ゆかりの場所を案内してくれた。近所には、ゴーギャンからもらった足踏みミシンを、今でも使っているおばあちゃんが住んでいた。彼女は「昔、母がゴーギャンから版画に使った版木をもらって持っていたけど、火を焚く時に燃やしてしまった」と笑っていた。
 
 
 

【参考文献】
池辺一郎『未完のゴーガン タヒチ以前の生活と思想』(みすず書房)
「芸術新潮:特集 ゴーギャンという人生」2009年7月号(新潮社)
 
【展覧会情報】
「松方コレクション展」
会場:国立西洋美術館(台東区上野公園)
2019年6月11日(火)~9月23日(月)
松方幸次郎がヨーロッパ各地で収集した膨大なコレクションから、ゴーギャンをはじめ、ゴッホやモネなどの国内外に散逸した名画を含む約160点が歴史資料と共に展示される。

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著者 ナカムラクニオプロフィール

ナカムラクニオ
1971年東京生まれ。東京・荻窪のブックカフェ「6次元」店主、金継ぎ師、映像ディレクター、山形ビエンナーレキュレーター。著書に『人が集まる「つなぎ場」のつくり方――都市型茶室「6次元」の発想とは』『さんぽで感じる村上春樹』『パラレルキャリア』『金継ぎ手帖』『猫思考』『村上春樹語辞典』など。