08 マンガが育んだモネの「光」


キラキラと光が満ち(あふ)れた睡蓮(すいれん)の池。
夕日に照らされた積み(わら)
水面が揺れる美しいセーヌ川。
 
「小鳥が歌うように」描いた画家クロード・モネ(1840-1926)は色彩豊かな風景を眺め、穏やかな人生を過ごしたかに見える。印象派を代表する画家として成功し、86歳で亡くなるまで幸せだったと思われがちだ。しかし実は、貧困による自殺未遂、愛する妻の死、パトロンの夜逃げなど、知られざる壮絶な過去がある。むしろ、その黒歴史こそが、モネの絵具となってキャンバスに厚く塗り込められているのだ。
 
パリで生まれたモネ。父は、輸入食料品の店を営んでおり、4歳でセーヌ川沿いの港町ル・アーヴルに引っ越した。幼い頃から絵を描くことが好きだったモネ少年は、マンガが得意だった。学校の授業中もずっとノートに似顔絵を描いていたそうだ。当時マンガは、「カリカチュア(戯画)」と呼ばれ、新聞に風刺画として皮肉や批判を込めて描かれることが多かった。モネは、地元の有名人や学校の先生の顔を誇張して似顔絵をたくさん描いた。15歳の頃から、描いた風刺画を画材屋の店先で売り、生活費を稼いでいた。1枚10~20フラン、現在の価格にして1~2万円くらいで売れた。すると、偶然モネの作品を見かけた画家ブーダンに()められ、画家となる手ほどきを受ける。マンガを売ったお金、200フランほど(現在の約20万円)が貯まったおかげで、パリに旅立てたのだ。もし、この世にマンガという手段がなかったら、モネは食料品店のオーナーとして一生を終えていたかもしれない。


パリで活動を始めたモネは、モデルのカミーユと恋に落ちる。しかし、両親には反対され、生活費も断たれた。そんなモネは、とにかく貧乏だった。町の肉屋に 300フランの借金があり、作品を差し押さえられそうになった時は、200点もの作品を自ら切り裂いた。貼り合わされた作品は50枚まとめて30フラン(現在の価値で約3万円)で売り払われたという。もしその肉屋が、モネの作品を200点買い取って保存していたら、美術館が建ったに違いない。
お金に困ったモネは勝負に出た。当時人気があったマネの「草上の昼食」に大きな影響を受け、彼とそっくりの手法で、背景を真っ黒に塗りつぶした「カミーユ」をサロンへ出品したのだ。そして、絶賛された。しかし、新人画家のモネは、先輩画家マネに名前が似ていたので、作風を真似している「パクリ画家」だと勘違いされた。幼い頃からマンガで画力を(つちか)ったモネは、人気作家の優れた部分を真似する天才でもあったのだ。
その後、妻カミーユとの間に長男ジャンが生まれたが、経済的にはさらに行き詰まっていた。妻と子どもが日々食べものに困るようでは苦しくてたまらないと悩み、動転したモネは愛するセーヌ川に身を投げた。しかし、死ねなかった。
お金がなく、電気もない暮らし。画家仲間で親友のルノワールからパンをもらいながら、必死に描き続けた。そんな時、最愛の妻カミーユが、次男を出産した翌年に32歳で死亡。さらに、モネのパトロンであったエルネスト・オシュデも経営するデパートが潰れ、妻アリスと6人の子どもたちを置いて夜逃げしてしまった。モネは、再び絶望する。なんと自分の子ども2人と、パトロンの妻と6人の子どもの面倒も見ることになったのだ。まるで「大家族」の奮闘を描いたバラエティ番組のように波瀾(はらん)万丈な展開だ。


しかしこの頃、重要な出会いがあった。
英国を代表する風景画家ターナー(1775-1851)だ。
 
1870年、普仏戦争が始まるとモネは、徴兵を避けるためロンドンへと逃れた。そこで運命の出会いが待っていたのだ。ターナーは、霧や大気をぼかして描く独特な風景描写で知られている。単なる写実ではなく、自然の移ろいゆく光を「感性で描く」スタイルだ。今では 印象派の画家に比べ人気は低いが、誰よりも早く「印象派の画風」を成功させていた。むしろ、ターナーこそが印象派の祖だと言っても過言ではない。実際、この頃、写真も開発され、似ているだけの写実主義は力を失っていた。写真家ナダールによって、多くの有名人の肖像がカメラで撮影されるようになり、リアルに描き写す絵画から内面を描く表現の絵画へと移行していった時期でもあるのだ。写真の技術の発展が、印象派の人気を加速させた。


1874年、第1回の印象派展がナダールのスタジオで開催された。モネは、「印象・日の出」などを出品。評論家に「印象を描いただけだ」と新聞で酷評されたことで、逆に有名になってしまった。今で言う炎上マーケティングのようなものだ。
日本でも明治時代には、横山大観や菱田(ひしだ)春草が描いた印象派風の絵画が「西洋かぶれの朦朧体(もうろうたい)」と揶揄(やゆ)され有名になった。1980年代、ニューヨークの地下鉄構内で落書きをして逮捕されたことで知られるようになったキース・ヘリングや、違法な落書きでありながらもなぜかニュースになることで市場価値が生まれたグラフィティアーティストのバンクシーも同じような社会現象だと言える。
いずれにしても、売れない画家モネは「印象・日の出」を描き、叩かれたことで大成功することができたのだ。そして、有名になったモネは、世間で話題になった「印象・日の出」と同じような「色彩が全面に溢れた絵画」を量産した。
画家は、自分のスタイルに固執しすぎて、マンネリズムに陥ることも多いが、モネの場合、その連続性が多くのコレクターに愛された。アンディ・ウォーホルがキャンベルスープの缶をモチーフにした作品を繰り返しシルクスクリーンで制作したように、モネの睡蓮もポップアートのような輝きがある。モネは、「サザエさん」や「ドラえもん」や「ちびまる子ちゃん」と同じような「偉大なるマンネリズム」によって名声を手に入れたのだった。


モネは、睡蓮の池、積み藁、大聖堂など1つのモチーフを異なる時間と光のもとで描く「連作」に挑戦した。
まるでマンガのコマ割のような発想だ。少しずつ違う絵を並べることで「時間」を演出することができた。
これらの連作に対しては商業主義という批判もあったが、モネはあきらめずに描き続けた。量産することで多くのコレクターも喜ばせることができたのだ。葛飾北斎の「富嶽三十六景」のように「富士山」という同じモチーフを連作する浮世絵の様式がヒントになったのかもしれない。実際にモネは、浮世絵のコレクターとしても知られている。歌麿、北斎、広重など233枚も所有していた。構図や色彩だけでなく、北斎漫画などからも「連続性のある絵画表現」を学んでいたのだ。ジヴェルニーのモネの庭につくられた池には日本風の太鼓橋をかけて、水面を日本から輸入した睡蓮で埋め尽くした。この「太鼓橋」の構図も浮世絵を参考にしている。モネは、白内障が進んで、視界がぼやけてきても、なお斬新な色彩で睡蓮を描き続けた。悲劇を逆手に取って、苦難を乗り越えたのだ。
輪郭がぼやけた作品を「溶けたアイスクリーム」と批評家に揶揄されても生涯、同じスタイルで描き続けた。巨大なキャンバスには中心がなく、始まりも終わりもない。しかし、リアルな空気感が伝わる。写実では伝えにくい、インスタレーション的絵画のはじまりだった。モネの作品は、美術が近代から現代へと移行する時代に、絵画を「意味」から「体験」へと変化させていく橋渡し役となったのだ。
 
このような近代絵画の巨匠モネの人生は、すべて少年時代に描いたマンガからはじまった。
彼が描きたかったのは、光のみを極限まで誇張した色彩のカリカチュアだったのだ。

 
 
 

【参考文献】
ジャン=ポール・クレスペル『岩波 世界の巨匠 モネ』著高階絵里加訳(岩波書店)
木島俊介責任編集『アートギャラリー現代世界の美術1 モネMONET』(集英社)
杉全美帆子『イラストで読む印象派の画家たち』(河出書房新社)
 
【展覧会情報】
「松方コレクション展」
会場:国立西洋美術館(台東区上野)
2019年6月11日(火)~9月23日(月・祝)
修復を経たモネの『睡蓮―柳の反映』などが公開予定。
 
「コートールド美術館展」
会場:東京都美術館(台東区上野)
2019年9月10日(火)~2019年12月15日(日)
ロンドンのコートールド美術館収蔵の印象派・ポスト印象派作品が来日。
モネをはじめマネ、ゴッホ、ルノワールなどの作品が公開予定。

毎月第2・4木曜日更新

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著者 ナカムラクニオプロフィール

ナカムラクニオ
1971年東京生まれ。東京・荻窪のブックカフェ「6次元」店主、金継ぎ師、映像ディレクター、山形ビエンナーレキュレーター。著書に『人が集まる「つなぎ場」のつくり方――都市型茶室「6次元」の発想とは』『さんぽで感じる村上春樹』『パラレルキャリア』『金継ぎ手帖』『猫思考』『村上春樹語辞典』など。