11 ミュシャの魔術的人生


アール・ヌーヴォーの旗手であるミュシャ(1860‐1939)は、魔法使いだ。人生も作品も謎に満ちていて、作品は100年経っても、まったく色あせない。19世紀末のフランスで彼が生み出した装飾性の高い平面的表現は、絵画のみならず世界のデザインやイラストレーションに大きな影響を与え、現代でも「ミュシャ様式」と呼ばれる作品が(ちまた)にあふれている。
例えば、1910年代~30年代のアール・デコ期にオリエンタルなイラストレーションで活躍したジョルジュ・バルビエや、ロシア生まれのデザイナーのエルテ。彼らの優雅でロマンチックな作品は、ビアズリーの線とミュシャの構図をリミックスしたものだ。また1960年代にサイケデリックなポスターで一世を風靡(ふうび)したアメリカの画家ピーター・マックスは、ミュシャの淡く繊細な色彩を派手な原色で塗り替えて成功した。
 
日本にも明治時代の挿絵にはじまり、昭和や平成のマンガ家まで、ミュシャ・チルドレンがたくさんいる。与謝野晶子の歌集『みだれ髪』の表紙を描いた藤島武二、『吾輩は猫である』の装画で知られる橋口五葉、大正、昭和にかけて活躍した竹久夢二、ファイナルファンタジーのイラストで知られる天野喜孝、ロックバンド、ASIAN KUNG-FU GENERATION(アジアン・カンフー・ジェネレーション)のアートワークで知られる中村佑介も繊細な線と図像学的な構図がよく似ている。日本人がこれほどまでに「ミュシャ様式」を受け入れたのは、アール・ヌーヴォーそのものがジャポニスムや浮世絵の影響で生まれ、逆輸入されたことと関係があるに違いない。自然を信仰し、芸術に取り込んだ「アニミズムの造形」であるアール・ヌーヴォーは、日本人にとって、まったく違和感のない表現。だから、自然の中に最高の形があると信じたガウディの建築も日本人にとっては、巨木信仰と同じように愛することができるのだ。
 
では、ミュシャは、いったい何から影響を受け、どうやって自分の「様式」をみつけたのだろうか?


例えば、タバコの巻紙「JOB」のポスター。この作品の特徴は、浮世絵のようなシンプルな構図にある。画面の中に文字が入っているにもかかわらず、違和感なく全体は調和している。これは喜多川歌麿(うたまろ)の浮世絵「ビードロを吹く娘」をアール・ヌーヴォー的にアレンジした作品だとも言えるだろう。縁を飾るジグザグ模様は、ビザンティン風のモザイクモチーフ。とにかくいろいろと混ぜ合わせているのが面白い。
 
19世紀末、イギリスではウィリアム・モリスが植物模様を使った美しい壁紙や書籍を作り、浮世絵に影響を受けたウォルター・クレインやケイト・グリーナウェイなどの挿絵画家たちによって、全面カラー刷りの華やかな絵本が作られていた。エキゾチックな線の表現で頭角を現していたオーブリー・ビアズリーもミュシャにとっては教科書となったのだろう。さらに最先端の印刷技術も登場した。画家ジュール・シェレが世界初のリトグラフ工房をパリに開き、ポスターを大量生産するようになっていた。鮮やかな色で印刷された華やかなポスターはパリで話題のメディアとなっていた。
 
彼は、自分が羽ばたく瞬間を待っていたように、ウォルター・クレインの構図、ケイト・グリーナウェイの装飾性、オーブリー・ビアズリーの妖艶な線、ジュール・シェレの技術と色使いをミックスして、最強の「ミュシャ様式」を編み出した。しかし、ミュシャの作品には、技法だけでは、すべてを説明できない魔力がある。彼はいつも最後に、目に見えない何かを画面に忍び込ませて描いているのだ(あるいは、実際に祈り、呪文を唱えて魔法をかけていたのかもしれない)。ミュシャの作品は、そんな風に、夢や幻想の存在を強く信じている「祈りの絵画」だと強く感じる。だから、いつまでたっても魅力が失われないのだ。


アルフォンス・ミュシャは、1860年に東欧チェコのイヴァンチツェという小さな田舎町で生まれた。父は、裁判所に勤める公務員。芸術に縁がある一族でもなかった。子どもの頃から絵が好きだったミュシャは、8歳の頃、素晴らしいキリストの「磔刑図(たつけいず)」を描いているのが興味深い。彼にとって描くことは、祈ることだった。学費を稼ぐために教会の聖歌隊で歌っていたことも、彼の世界観に大きな影響を及ぼしたのだろう。チェコ出身の芸術家と言えば、『変身』を書いた小説家フランツ・カフカ、ロボットという言葉を作った劇作家カレル・チャペック。シュルレアリスム画家のトワイヤン、映像作家ヤン・シュヴァンクマイエルなどが知られているが、なぜか幻想的な作風の作家が多い。当時、チェコのプラハは「ヨーロッパの魔都」とも呼ばれ、天文学、魔術、錬金術の盛んな街。昔から幽霊や伝説を取り上げた芸術作品も多い。ミュシャもやはり心霊術や降霊術に強い関心を持っており、晩年は、神話、伝説、民族をテーマにした作品を描き続けた。
 
そんなミュシャは、勉強が大の苦手。中学校を中退し、裁判所で書記の仕事をしながら画家を目指した。18歳の時、プラハの美術アカデミーを受験したが、不合格。親のスネをかじることもできず19歳の時、ウィーンに出て、演劇の舞台装置を作る工房で働き始めた。同じ頃、ウィーンでは、2歳年下のクリムトが弟エルンスト、友人のフランツ・マッチュとともに壁画の装飾美術やデザインを請け負う仕事を始めており、劇場装飾を中心に活躍していた。クリムトとの交流は知られていないが、おそらくミュシャは刺激を受けていたに違いない。チェコの田舎で育ったミュシャにとって、芸術の都ウィーンは初めて出会う文化ばかり。当時のウィーンは、スラヴ系、ゲルマン系、ユダヤ系、ラテン系などが一緒に働く「人種のサラダ・ボウル」だった。彼はここで様々な様式、言語が混ざり合う国際感覚、画家としての教養を身につけていった。のちに花開く「ミュシャ様式」は、この「ごちゃまぜ感」が重要なポイントなのだ。象徴主義、神秘主義、ケルト風、ジャポニスムなどが絶妙なバランス感覚で溶け込んでいる。まさかこの時、舞台美術のスタッフであったミュシャが、後に演劇ポスターの巨匠になるとは、誰も思わなかっただろう。


しかし、20歳の頃、最愛の母が死亡。さらに、就職したウィーンの工房も21歳の頃、得意先の劇場が火事になったことで解雇されてしまう。ミュシャは、絶望した。
彼は、あてどなく電車に乗ってさまよった。お金もない。仕事もない。コネもない。彼にできることは絵を描くことだけだった。車窓から見える風景をただひたすら描きながら、気がつけば、オーストリアとチェコの国境近くのミクロフという知らない駅で途中下車していた。なぜこの駅で降りたのかわからないが、ミュシャは自分にささやかな魔法をかけたに違いない。
 
たまたま入ったお店の人が、描いたばかりのスケッチを気に入ってくれた。小さな町だったのでミュシャのスケッチはすぐに評判になり、地元名士から肖像画の注文が入った。そのため、町にしばらく滞在することになった。すると、今度はこの地方最大の地主であるクーエン・ベラシ伯爵に絵を気に入られ、城の食堂と図書室の絵画の修復をまかされた。そして、ベラシ伯爵がパトロンになってくれ、ドイツ、ミュンヘンの美術アカデミーに留学する費用をすべて援助してくれることになったのだ。わらしべ長者のように、何も持っていなかった孤独な青年ミュシャは、1枚のスケッチから留学という宝を手にしたのだ。美術アカデミー卒業後、28歳のミュシャは、さらにステップアップするため、パリの画塾に入学し、1年間学んだ。しかし、卒業すると伯爵からの援助が突然、打ち切られる。詳細は不明だが、これはミュシャを自立させるための厳しい愛情だったのかもしれない。その後は、雑誌や書籍の挿絵を描きながら、なんとか食いつないで暮らした。
それでもアカデミックな技法で描くリアリズム画家としては活躍するチャンスがなかった。パリでは流行が大きく変化し、古典的な絵画は時代遅れと見なされた。写真が流行し、肖像画も衰退しはじめていた。そんな時代の中、ミュシャは大きな仕事ができないまま、34歳になっていた。しかし、この時代はミュシャにとってチャンスだった。19世紀末の芸術は、絵画表現だけでなく「グラフィックデザイン」「ポスター」という概念が生まれた革新的な時代。書籍の挿絵を描いていたミュシャは印刷所に出入りし、多くの先駆的なイラストレーションも目にしていたのだ。


ある日、ミュシャは友人のクリスマス休暇の代わりに印刷所で校正の仕事をしていた。すると突然、印刷所に大女優サラ・ベルナールのマネージャーからポスター制作の依頼が入ってきた。宗教劇「ジスモンダ」の再演が急遽(きゆうきよ)決まり、1月1日までにポスターを用意しなければならなかった。締め切りまでわずか数日。印刷所にいたのは彫り師、刷り師、印刷工。あとは偶然居合わせただけのミュシャしかいない。彼は、もちろん「僕が描きます」と言った。正確には「描けます」と言ったのかもしれない。絵画の基礎は充分にできていた。アイデアもたくさんストックしていた。「ジスモンダ」は、古代アテネを舞台にした恋愛劇。彼の一番得意な「ビザンティン様式」を取り入れることができた。ビザンティンは、物質より精神性を求め、荘厳で色鮮やかな装飾性が特徴。東欧やロシアのスラヴ人によって育まれてきた得意の美術表現で描き、自分らしさを演出できたのだ。まるで子どもの頃から親しんだグレゴリオ聖歌を歌いながら仕上げるようにあっという間にアイデアをまとめ、2日後には菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の「見返り美人図」のような縦長構図の美人画を仕上げた。そして、このポスターがパリの街に貼り出されると大評判となった。1月1日に目覚めたらミュシャは、パリの大スターになっていたのだ。これは、もはや偶然というよりはミュシャの「魔術的な引き寄せ力」というしかない。
さらに、彼の作品のもうひとつの大切な要素は、東方教会における平面的な聖像「イコン」だ。ミュシャの作品には、円形の光で包まれた神(女神)がすべての民族の平和を祈るように微笑(ほほえ)んでいるものが多い。これは、まさに彼が子どもの頃から祈りを捧げていたイコンの描き方だ。10代の頃、聖歌隊として賛美歌を歌っていたときに見つめていた教会のグラフィックデザインが彼の原点なのだ。彼はこんな言葉を残している。「芸術のための芸術を創るよりも、大衆のための絵の制作者でありたい」。ミュシャは、すべての人々を救済する「イコン」のように作品を描き続けたからこそ、愛され、現在も世界で生き続けているのだろう。

 
 
 

【参考文献】
小野尚子、本橋弥生、阿部賢一、鹿島茂『ミュシャ パリの華、スラヴの魂』(新潮社)
大友義博監修『もっと知りたいミュシャの世界』(宝島社)
冨田章、白田由樹、小野尚子著『ミュシャのすべて』堺アルフォンス・ミュシャ館協力(角川新書)
 
【展覧会情報】
「みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ――線の魔術」
会場:Bunkamura ザ・ミュージアム(東京都渋谷区)
2019年7月13日(土)~9月29日(日)

毎月第2・4木曜日更新

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著者 ナカムラクニオプロフィール

ナカムラクニオ
1971年東京生まれ。東京・荻窪のブックカフェ「6次元」店主、金継ぎ師、映像ディレクター、山形ビエンナーレキュレーター。著書に『人が集まる「つなぎ場」のつくり方――都市型茶室「6次元」の発想とは』『さんぽで感じる村上春樹』『パラレルキャリア』『金継ぎ手帖』『猫思考』『村上春樹語辞典』など。