05 “超特急”エゴン・シーレのねじれた愛


エゴン・シーレは駅で生まれ、超特急のような人生を送った。官能と享楽を求めた画家が描く線は、いつまでも走り続け、誰にも止めることができなかった。彼は、スピードとスリルをエネルギーにして生きた画家だった。
 
1890年6月12日、エゴン・シーレ(1890-1918)は、オーストリアのドナウ河湖畔にある小さな町、トゥルンの駅で生まれた。父アドルフが国有鉄道に勤める駅長だったため、駅の2階が一家の住まいだったのだ。1890年といえば、ちょうどゴッホが死んだ年。そのためシーレは、生涯にわたり「自分はゴッホの生まれ変わり」と考えていたらしい。
シーレの父アドルフ・シーレの出身は、北ドイツ。家系には政治家、軍人、法学者などがいて、14世紀までさかのぼる名門だった。一方、母は南ボヘミア(現在のチェコ)のクルマウ出身。農民や職人の家系だが、父が鉄道関係の建築業で財を成し、ウィーンに貸家を6軒も持つほどの資産家だった。そんなシーレ少年の楽しみは、汽車から降りて行き交う人々を見つめながら、絵を描くことだった。ウィーンに向かう、あるいはやってくる人々が乗り降りするホームで、彼は人々と汽車を眺め続けた。8歳頃の描いたスケッチが残されているが、やはりそこには汽車が素早いタッチで描かれている。
彼は28歳という若さで亡くなるまで、まさに特急列車のごとく、ものすごいスピードで描き続けたのだ。


シーレが12歳の頃、父アドルフが梅毒による進行性麻痺によって駅長を退職。性に奔放だったため、性病にかかっていたのだ。その後、(うつ)状態で奇行を繰り返していた。そして、一家は、年金でひっそり暮らしていた。幼い頃から勉強が苦手だったシーレだが、翌年の父の結婚記念日には愛情のこもった自作の詩を送っている。
 
「今日という日、父は
われらすべての生に幸あれと
この世に生れて
わが心とわが(ひとみ)
至純の歓喜にかがやく……」
 (坂崎乙郎『エゴン・シーレ』平凡社ライブラリーより)
 
そして、14歳の時、父は亡くなった。繊細な年頃のシーレ少年は、裕福な叔父レオポルドに引き取られ、ウィーンの立派なお屋敷で暮らすことになった。この頃から何かにとり憑かれたようにシーレは絵を描くようになるのだ。父の死を(とむら)うように、自画像を中心とした大量の絵を描きはじめた。美男子のエゴン・シーレが描くのは、枯れ木のような肉体とねじれた手足。ざらざらと乾いた暗い色調の絵肌にひっかくような線で、孤独や不安を描いた。その多くは、自己愛に(あふ)れた自画像だった。ゴッホですら40点ほどしかない自画像。彼は、自分の姿をひたすら観察し続け、100点以上も繰り返し分身を生み出した。


シーレは16歳でウィーン美術アカデミーに入学する。のちの独裁者アドルフ・ヒトラーもこの翌年にシーレと同じ学校の入学試験を受け、失敗していることは有名な話だ。もしヒトラーに画家の才能があったら、彼らは友だちになっていたかもしれない。そして、世界の歴史も変わっていただろう。
ともあれナルシシストの耽美(たんび)主義者シーレは、絵ばかり描いていた。ヌードモデルとして描いたのは、4歳年下の妹ゲルティ。近親相姦(そうかん)の関係だったともいわれている。17歳の頃、ウィーンにアトリエを構え、大スターだった画家グスタフ・クリムトとも初めて出会う。そして、クリムトに紹介され、建築や家具などのデザインを請け負う「ウィーン工房」の仕事をするなど早熟な才能を開花させた。18歳の年には、修道院での展覧会に初出品した。
クリムトとの出会いはシーレにとって、もう1つ大きな転機をもたらす。それは、21歳の時クリムトから紹介された17歳のモデル、ヴァリ・ノイツィルとの恋だった。すぐに意気投合した2人は同棲を始める。ウィーンを離れ、母の故郷であるボヘミアの小さな町クルマウに引越し、ミューズとなった美少女ヴァリと共に創作に打ち込んだのだった。しかし、ここで問題が発生した。シーレはヴァリと同棲しながらも、たくさんの若い少女たちをナンパし、アトリエに連れ込み裸体を描いた。そして、13、4歳の少女を誘拐した容疑で逮捕され、24日間の獄中生活を送った。裁判官により、公衆の面前で絵を燃やされたものの、特別に画材が与えられ牢屋の中でも描き続けた。彼が獄中に残したメモに、こんな言葉がある。ここにシーレの考え方がはっきり示されている。
 
「罰せられたのでない。ぼくは純化されたような気がする」
 (坂崎乙郎『エゴン・シーレ』平凡社ライブラリーより)
 
彼は、禁断とされた性の表現を強調すればするほど、純粋な精神に近づいた。より純度の高い自分自身を描くことに挑戦したのだろう。反社会的にも思える創作の中にこそ、新しい時代の可能性があると信じていたのだ。シーレが描く過激でスピード感のある線は、エネルギーの鮮度を強く感じる。音楽で言うと、激しいパンクや音の(ゆが)みが心地いいノイズ系のロックという感じだ。


シーレは出所した後、クリムトから紹介してもらった資産家のおかげで、再び制作を開始。逮捕され投獄された人生のどん底から立ち直ることができた。
22歳でクリムトらの分離派展に参加し、版画、詩などもたくさん創作する機会に恵まれた。
しかし、そんなシーレが憧れていたのは、命の恩人であるクリムトではなく、圧倒的にゴッホだった。特に「ひまわり」が大好きだった。ゴッホ風のひまわりをたくさん描き、彼に近づこうとした。わずか10年の間に2000点以上もの作品を残して自殺したゴッホのように、シーレもなりたかったのか。
シーレは、ゴッホの病的な感性、狂気のスピード、死のイメージを武器に闘っていこうと考えていたに違いない。そして、デッサンは、フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの影響が最も強い。ロダンがモデルを描く時に自由にアトリエを歩かせたり、寝かせたりしてスケッチした「即興的な手法」を真似して描いた。おそらくシーレは、ゴッホの表現主義的な激しい筆さばきに、ロダンのスピード感溢れるエロティックな線を融合させ、躍動感に満ちた新しい絵画を描きたかったのだろう。


24歳になり、ウィーンに戻ってきたシーレ。そこで、4年間も彼の創作を支えてくれた恋人のヴァリがいたにもかかわらず、近所に住むアデーレとエーディトという姉妹に恋をしてしまう。そして、姉妹が裕福だったため、お金に目がくらんだのか、恋人ヴァリを捨て、妹のエーディトと結婚するのだ。信じられないことに、シーレは別れたヴァリに今後も会おうと連絡し、姉アデーレとも肉体関係を継続した。シーレは、このねじれた三股の恋愛関係をバネにした。嫁とその姉、元カノ、そして死神のような自分をモチーフにした傑作を描くことで、青年エゴン・シーレは「天才画家エゴン・シーレ」になれたのだ。そして、1918年。別れた恋人ヴァリは、第一次大戦の従軍看護婦になり、前年に派遣先で病死したが、一方のシーレは分離派展のメインルームを飾ることになり、ついに画家としての評価が確立した。家族で大きなアトリエ付きの住宅にも引っ越しをした。
 
しかし、大成功を収めた矢先、恩人のクリムトが脳卒中発症後、肺炎により死亡。さらに妊娠6カ月であった妻のエーディトが、スペイン風邪によって亡くなってしまう。
そして、看病をしていたシーレも3日後に同じ病のために死んだ。これから華々しい画家人生が待っていたはずなのに、いきなり終了してしまった。すべてを手に入れたかに見えた瞬間、すべてを失ってしまったのだ。その時、28歳の若さだった。いったいなぜ彼が、ここまで生き急ぐ必要があったのかはわからない。しかし、この超特急列車のようにスピード感溢れる絵画たちが、今でも多くの人々の心をえぐるほど魅力的であることに変わりはないだろう。

 
 
 

【参考文献】
坂崎乙郎『エゴン・シーレ 二重の自画像』(平凡社ライブラリー)
水沢勉編著『エゴン・シーレ ウィーン世紀末を駆け抜けた鬼才』(六耀社)
 
【展覧会情報】
「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」
東京展:国立新美術館(港区六本木)
2019年4月24日(水)〜8月5日(月)
大阪展:国立国際美術館(大阪市北区)
2019年8月27日(火)〜12月8日(日)

毎月第2・4木曜日更新

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著者 ナカムラクニオプロフィール

ナカムラクニオ
1971年東京生まれ。東京・荻窪のブックカフェ「6次元」店主、金継ぎ師、映像ディレクター、山形ビエンナーレキュレーター。著書に『人が集まる「つなぎ場」のつくり方――都市型茶室「6次元」の発想とは』『さんぽで感じる村上春樹』『パラレルキャリア』『金継ぎ手帖』『猫思考』『村上春樹語辞典』など。