第一章 憲法って何?(4/4)

なぜ公文書を残すことが大切

 さきほどの、内閣法制局が憲法の集団的自衛権を容認することになった経緯でもう一つ大きな問題があります。内閣法制局の中でどのような議論があったのかという議事録=公文書を残していなかったのです。内閣法制局が突然これまでの態度を変えて集団的自衛権を容認するに至った過程がどういうものだったのか。それが今となっては検証できないわけです。
 このような公文書の管理の問題はずっと続いています。森友学園への国有地払い下げ問題、加計(かけ)学園の獣医学部新設に関わる問題、自衛隊の海外派遣時の日報問題と、公文書の管理にまつわる問題がとても多くなっています。これが「どうしてこんなに大きなニュースになるんだ」と思っている人がいるかもしれません。しかし、これは民主主義の根幹に関わってくる問題なのです。つまり、公務員が何かをした。どんなことをしたのか。果たしてそれは法律に基づいているのかどうなのか。後からいつでも私たちが検証できる公文書を残しておく仕組みになっていなくてはならないからです。
 たとえば、自衛隊が南スーダンに派遣された。あるいはイラクに派遣された。そのとき自衛隊がどんな活動をして、周辺でどのような戦闘行為があったのか。自衛隊員はどういう活動をしていたのか。全員無事に帰ってきたけれど、本当は命の危険があったのではないか。記録をきちんと残してこそ、後で検証できるわけです。さらに、これからも自衛隊はどこか危険な場所にPKO(国連平和維持活動)で出ていくかもしれません。その際、過去に南スーダンやイラクに派遣されたとき、自衛隊はどんな状況に置かれ、その状況に対して、どう対応していたのか。以前の記録をもとに検証するということが大事になってくるのです。それが「既に破棄されています」、「記録がありません」、「どこかへ行ってしまいました」、あるいは都合が悪いところが改ざんされていたということになると教訓として生かされません。民主主義の根幹に関わることになります。
 なぜ民主主義の根幹に関わるのか。それは、さまざまな情報を知ること、またその上で、政治に参加することが国民の権利でもあるからです。だからこそ、公文書の管理が国会で 大きな問題になっているのです。
 公文書を残すことには、もう一つ大切な理由があります。政治家、あるいは官僚たちに、自分のすることへの歴史的な責任を自覚させる意義があるのです。
 公文書でも国家機密に関することで、しばらくはオープンにできない情報もあるでしょう。しかし、そういう情報もいずれは公開されます。すると、かつて何が起こっていたのかがわかります。もしかすると、特定のある人によるとんでもない判断が今のある事態を引き起こしたという場合もあるかもしれません。それは記録が残っていればこそ検証できるわけです。
 その判断をした人が、たとえ政治家を辞めたり、官僚を辞めていたり、あるいは亡くなっていたりしたとしても、記録が残っていれば、歴史にその名前が残ることになる。自分の名前が悪いかたちで歴史に刻まれるなんて、多くの人にとっては嫌なことで、そんな行いは避けるでしょう。
 そういう歴史的な責任を感じる意識があれば、どう判断し、ふるまうかを考えて行動する動機が生まれることになるはずだよね。目先の出世のことを考えて、忖度して何かをしたところで、それが後になってわかるとなれば、それは人間として恥ずかしい。だから公文書を保存することが、行政に関わる人たちの判断を鈍らせることへの歯止めになり得るのです。
 公文書の改ざんや廃棄が問題になっていますが、「情報公開法」や「公文書管理法」という法律が既にあります。行政は請求に対して公開の義務が取り決められていて、公文書の管理の仕方も法律になっています。けれど改めて公文書の管理を徹底する必要があります。保管の期限や公開までの期間などをさらに改良することで、行政に関わる人たちが歴史的責任を今以上に強く感じて取り組むようになれば、その仕事の質はおのずと高まるのではないでしょうか。

民主主義を支える「表現の自由」

 情報公開法や公文書管理法は、「知る権利」と関わっています。日本の憲法では、「表現の自由」について以下のように定められています。

第二一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。(日本国憲法)

「知る権利」は、「表現の自由」があるからこそ成立すると考えられています。いろいろな情報が自由に表現されて、そこに公権力が介入しないからこそ、人はそのいろいろな情報を得て、さまざまなことを判断できると考えられているわけです。
 しかし今、メディアも大きな権力になっているわりに、その責任を負っていないのではないかといった意見もあります。フェイクニュースなどといって、真偽が定かではないような情報も大量にメディアで紹介されるようになっていて、それに対する責任は誰が持ち、それを誰がチェックするのでしょうか。メディアにはそういった組織や仕組みがないという批判があるのです。
 テレビであればBPO(放送倫理・番組向上機構)という組織があり、一定の成果を挙げているとも言えるのですが、新聞や出版に関しては、そういった組織はありません。だから無責任な報道があるのではないかという思いを持っている人もいるかもしれません。そういう思いからか、既存の新聞やテレビなどのメディアがインターネットで批判されるようにもなっています。
 ただし、インターネットにもひどい情報がたくさんあり、その内容を新聞社がチェックする動きも出ています。相互にファクトチェックをすることで、情報の精度を高めていくしかありません。
 ただ最終的にそれを審判するのは国民それぞれの役割です。誰かに任せきることはできません。「表現の自由」には「表現の自由」をもって対抗する。なぜなら、他者を傷つけたりする自由はありませんが、「表現の自由」を制限することは、他者の自由を奪うことになるからです。そして「表現の自由」が奪われれば、もの言えぬ雰囲気をもたらし、社会が萎縮してしまいます。
 メディアは、資本主義のシステムの中では、売り上げ、あるいは利益という指標で評価されるしかない部分もあります。これまでも随分たくさんの雑誌や出版社がなくなりました。今も経営的に苦しい新聞や放送局があります。メディアは信頼を得ることで、経営的な基盤を成立させる努力をしていくしか、現時点では方法がないわけです。情報の重要性をはじめ、言論や報道の多様性が保障されてこそ民主主義が成り立つことを国民に訴える必要が、今後益々増していくことでしょう。

自由と権利を守るためには

 こうして見てくると、憲法は私たちの生活にさまざまな面で関わっていることがわかります。だからこそ、メディアの問題で触れたように、「自由を認めてそれを維持するには、人任せではいけませんよ」といった考えが憲法の中に示されているのです。

第一二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。(日本国憲法)

 この一二条では、憲法で保障されている自由と権利は、国民の絶えざる努力で保っていかないといけません。そして、自分の自由や権利をむやみに使ってはいけません。それぞれがそれぞれに認められている自由や権利を主張し過ぎると、互いにぶつかって争いが生じる場合もあるので、社会全体のためにその自由や権利を使う責任があります、ということが述べられています。
 国会はじめ今の政治状況を見ていると、歯がゆかったり、ふがいなかったりと思う人もいるかもしれません。しかし、そう思わない人もいるかもしれません。君たちは、どうですか。
 歯がゆかったり、ふがいなかったりするのは与党なのか、それとも野党なのか。はたまた内閣をはじめとした行政なのか。政治そのものか。どういうことを考えましたか。
 この世の中には、さまざま違う考え方を持つ人が集まって暮らしています。それぞれの違う意見を言い合うだけでは、社会は成り立ちません。ですから政治には、多様な意見を調整してよりよい社会にしていくことが求められているのです。自分たちの自由や権利を保持するためにも、そういった政治状況を私たちがもっと要求していく必要があるとも言えるのです。
 結果的に今の政権を選んでいるのは、私たちです。選挙で議員を選んでいるわけですから、私たちにも責任があります。おっと、君たちがまだ選挙権を持っていないのであれば、責任はありませんよ。でも、これから先、選挙権を持てば責任が生じます。
「選挙に行かないから関係ないよ」なんて、思っていませんか? 選挙に行かないということは、「今のままでもいいよ」ということを意味します。であれば、選挙で棄権しても責任はあるのです。
 そこで考えなくてはいけないのは、民主主義というのは、極めて欠陥の多い政治制度だということです。それぞれの主張がぶつかる中で妥協に妥協を重ね、少しでも多くの人たちが納得できるよう調整しながら社会を運営していく仕組みが民主主義だからです。イギリスの元首相であるウィンストン・チャーチルの有名な言葉があります。
「民主主義というのは最悪の政治制度といえる。ただし、これまでに試みられてきたあらゆる制度を別にすれば」
 なんとも皮肉な言い方ですね。民主主義は理想の仕組みではないけれど、他がもっとひどいから、相対的に民主主義でいくしかない。そして、みんなが納得できる仕組みなんてものもあり得ないのです。
 民主主義における選挙制度とは、どういうものか。とりあえず選んだ人や党に絶対的権力を与えるわけです。期間限定の独裁政治を認めるシステムとも言えるわけです。
 しかし、自分の投票した人が当選したり、投票した政党が政権を取ったりしたとしても、その仕事ぶりを見ていて駄目だとしたら、引っくり返すことができるのも民主主義なのです。次の選挙でその人や党に投票しなければいいわけですから。
 たとえば、アメリカの大統領は絶大な力を持っています。ドナルド・トランプという候補者が何かしてくれるのではないかと多くのアメリカ国民が期待して、彼を大統領に選びました。しかし、選んでみて、もし期待違いであれば、次の選挙で代えてしまえばいい。それが可能なのが、民主主義の国ということです。
 けれど独裁政権では、いくらとんでもないことをしている人間が国のトップにいても途中で引きずり降ろすことができないわけです。
 この期間限定の権力を与える仕組みが民主主義の最低ルールでもあるのです。たとえば日本でも、民主党が選挙で勝って自民党から民主党に政権が交代することが決まったとき、当時は自民党の麻生太郎首相でしたが、麻生氏はすぐに首相を辞めました。そして民主党の鳩山由紀夫氏が首相になりました。私たちはこれが当たり前だと思っていますが、当たり前ではない国もあるのです。たとえばアフリカの国では、「選挙の結果を認めない」と主張して、大統領が二人存在するといった事態が起こったことがあります。民主的な選挙制度はあっても、政権交代を認めない。そんなこともあり得るのです。
 選挙の結果に従って政権交代し、首相や大統領が代わる。世界の中でこういうことをきちんとできる国は、全体の半分にも満たないのです。この交代を可能にしている権利を有している私たちは、同時に責任も持っていることを意識して、不断の努力をしていかないとならないのです。
 ちょっと格好良すぎることを言いましたかね? 民主主義や憲法を語るということは、決してダサいことではないんですよ。

 

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著者プロフィール


池上彰(いけがみ・あきら)
ジャーナリスト。名城大学教授、東京工業大学特命教授。1950年長野県松本市生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。73年NHK入局。記者として災害や事件、消費者問題などを担当し、94年から「NHK週刊こどもニュース」初代お父さん役を11年間続ける。2005年にNHKを退職。フリーランスの立場で幅広く活動する。『そうだったのか!現代史』『そうだったのか!日本現代史』『高校生からわかる「資本論」』『これが「日本の民主主義」!』など、著書多数。
撮影:山下みどり